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『狭夜衣鴛鴦剣翅』~第二 塩冶判官高貞屋敷の段(その一)~

【登場人物】

※本段に登場する人物のみを記す

《新田側》

かほよ…塩冶判官高貞の妻。執権職・高武蔵守師直より求愛されている。

☆牧の侍従(まきのじじゅう)…塩冶判官の屋敷に出入りする女裁縫師。執権職・高武蔵守師直より、かほよとの恋の仲立ちを命じられている。

塩冶判官高貞屋敷の段(その一)


 塩谷判官高貞の屋敷の主人のお好みは清潔質実、匀当内侍の居間から障子と襖で仕切った一間に、いつもの客人・薬師寺が空しく気根もつきかけて築山にも似たその様子。庭の百日紅も笑っているよう。
 さて、主人ある花を目掛けて、恋の種をまいた牧の侍従は、人妻への恋の仲立ちという気の毒な筋合いを師直から頼みこまれ、塩谷判官高貞の妻への恋文の仲立ちは、布を経る(※1)ほど行き来する。館へは日ごろから出入りしているため、人目には留まらぬことを取り柄に、行き来の絶えない奥の御主人方と、端近にいる召使たちの動きを覗っている。ちょうど茶の間へ給仕をしにいく腰元を捕まえ、
「ちょっと、おべん女郎様、頼みたいことがございます。奥方のかほよ様に、侍従がひそかにお目通りしたいと申し上げてくださいませ」
と聞くと、
「あら侍従様、この頃はめっきり他人行儀ですね。かほよ様は内侍様の御傍に、いらっしゃいますから、私たちと御一緒に世間話でもしましょうよ。あなたもいつもの軽口話を聞かせてちょうだい。さぁさ、一緒に参りましょう」
と手を取る。
「いやまあ、少しだけお訪ね申し上げたいことがあるのです。それが御終いになってからあなた方の所へいきますから」
「なれば、しばらくお待ちください」
と、気軽についと奥に入っていった腰元を見て侍従は(苦労のない女のうらましいこと)と思いながらも、今日こそ思いの丈をつついてご合点をさせる方法を、これこれこうしようと企んでいた。すると、塩冶判官高貞の妻・かほよが、名高い桜花のような色艶に、梅の香匂う方笄(※2)、緑の糸の如き黒髪と柳腰に打掛をまとってしなやかに立ち出で来て、
「ねぇ、侍従様。あなたが私に会おうというのは今日でなければならぬことですか」
「左様にございます。今日こそは私が申すことをとっくりと聞いていただきたいのです」
「あら、いやなこと。今日もまたあの一間で薬師寺殿と夫は取り籠ってご相談。あたりの物音は話のお邪魔。やはり、先だってのことなら後でまとめて聞きましょう、その内に」
と、すげないことをいって奥へ戻ろうとするので、侍従は袂を控えて、「お待ちください」と一間に声が聞こえぬよう遠慮しながら、手短に要件を伝える。
「ではここで申しましょう。この前の御返事を申しに参りました。また、狂気の如く病が起こりまして、そのような答えならばもうよい、鎌倉へ使いを遣わし、執権職の威勢を持って、即時に事を計らうつもりだと、讒言さえしかねないような御面相。これは大事なりと、こちらへ取って返し、どうにか仲立ちをしますからと、いい宥めては参りましたが…。こんなつまらないことが大望ある御夫婦の御身に御難をかけるとは…。なんにせよ、この恋文をご覧あそばせ」
と、短冊の恋文を差し出すと、かほよは何を思ったか、少し思案した後、
「ではその短冊を」
と手に取って、自らの返事に、再び書き添えて返してきた師直の歌を見、
「かえすさへ手やふれにけんと思ふにぞ わがふみながらうちもおかれず―(※3)
流石は歌道の達人、『夫木集』の選者ともいわれる人の詠み方、これに返事をしなければ私は三神の祟りも受けかねません。では、ここに硯を」(※4)
と仰られて、嬉しい侍従は身軽に立ち上がり、「御合点ただ今硯を」と、擂ってあてがう墨色は薄いか濃いか。その墨でかほよは恋歌の短冊に筆早に書き連ねると、
「これ侍従。これで済まして、その上で破れても崩れてもそれは運の極み。今後二度と取次はして下さいますな」
と、短冊を投げ出しなさった。侍従がはっと拾い上げ吟じてみれば、曰く、
「さなきだにおもきがうへのさよごろも 我つまならぬつまなかさねそ―(※5)
 なんと…。では、どうあっても靡かぬ御心というのですね」
「当然のこと。筆をとったことさえ、夫になんと言い訳できましょう」
と、涙にくれるその御有様。それを見て侍従は、
「御尤も、御尤もにございます。せめてこれだけで師直の口塞ぎぐらいにはなりましょう。それでは、一時なりとも早いのが首尾にございますから」
と、口も体も軽はずみに。「またお目にかかります」といい残し、いそいそと出ていった。


※1 布を経る
 裁縫で横糸を通す毎におさを縦糸の目にそって上下させるように、頻繁に動くこと。
※2 片笄
 かたこうがい。女の髷の形。髪の根元を締め、その先を上に回し、根元に笄(髪を巻き付け髷を作る用具)指して固定したもの。
※3 かえすさへ手やふれにけんと思ふにぞ わがふみながらうちもおかれず
 『狭夜衣鴛鴦剣翅』の基となった『太平記』二十一「塩冶判官讒死ノ事」より。師直が塩冶の妻に邪恋を抱き、吉田兼好に代筆させ恋文を送るが、塩冶の妻は中味も見ずに庭に捨ててしまう。それを聞いた薬師寺次郎左衛門が代筆を引き受けて読んだ歌である。本編では、師直本人が読んだことに改変している。歌意は「返されてしまった文ではあるがあなたが触れたものだと思えば私の書いた文ながらそのまま打ち捨てるわけにもいかない」。
※4 流石は歌道の達人、『夫木集』の選者ともいわれる人の詠み方、これに返事をしなければ私は三神の祟りも受けかねません。
 『夫木集』は『夫木和歌抄』のこと。実際、高師直が撰者であった事実はなく全くの仮構であるが、『夫木和歌集』を写本したという記録はあり、作者はそれを基に人物設定したと考えられる。
※5 さなきだにおもきがうへのさよごろも 我つまならぬつまなかさねそ
 これも『太平記』二十一「塩冶判官讒死ノ事」より。塩冶の妻が、薬師寺の代筆した歌を聞いて、「重きが上の小夜衣」と言い捨てたことを聞き、薬師寺が思い当った『新古今和歌集』の「十戒ノ歌」の一。歌意は「ただでさえ夜着は重いというのに、その上さらに夜着を重ねることはできない(=すでに夫がいる身であるから、あなたの思いにはこたえられない)」。

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