『いざ言問はむ都鳥』(澤木喬)解説~タツミマサアキ・グレーテストヒッツ(6)~

《無数の小さなものたちに、緑のものたち取り囲まれて、彼ははたして、自分一人で思考したといえるだろうか》

 例えば、この解説で「日常」をキーワードに澤木喬を仁木悦子や北村薫と引き比べた巽のように、この解説をSAKATAM(※1)の書評と読み比べてみるとその違いがよくわかると思う。

《早朝の路面に散らばる花びらという光景の美しさが印象的です。途中の推理はともかく、結末は予想できるところかもしれません。しかし、植物に関する知識のない読者は置き去りにされている感もあります》(「いざ言問はむ都鳥」)
《あまりにも奇妙な謎が目を引きますが、飛躍こそあるものの、樋口の推理もまずまずだと思います》(「ゆく水にかずかくよりもはかなきは」)
《ぼや騒ぎと金魚鉢と高枝切り鋏をもとにした樋口の推理は、まさに落語の三題噺といった趣です。無理があるといえばあるのですが……》(「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」)
《“黒猫の幽霊”の話を枕にした推理は面白いと思うのですが、最後に示される結論が(悪い意味で)漫画的ともいえるほど現実味が薄いように感じられるところが残念です》(「むすびし水のこほれるを」)

 『いざ言問はむ都鳥』に収められた4編について、SAKATAMはいずれもその飛躍の大きさに難渋を示している。確かに、『いざ言問はむ都鳥』は飛躍の大きい小説である。冒頭に示される小さな謎――例えば「道端に散らばる花びら」や「子供用切符を大量に買う釣り人」や「火の気のない部屋で起きたボヤ騒ぎ」や「咲くはずのないサザンカを欲しがる隣人」――が、あれよあれよと巨大なビジョンに繋がっていくその様相は確かに《漫画的ともいえるほど現実味が薄い》かも知れない。しかし、この小説に対して《現実味が薄い》という評価は果たして適当なのだろうか。もっといえば、『いざ言問はむ都鳥』という小説は《現実味》という評価軸で捉えられる小説なのだろうか。

 いや、私はSAKATAMを批判しようというのではない。私は、氏の書評や評価の方法や作品読解に対するその誠実な態度について、誰よりも深い敬意を懐いているつもりだし、上記でSAKATAMが指摘したことは確かにその通りだとも思う。つまり、作品のメカニズムを詳細に検討すれば、『いざ言問はむ都鳥』がそうした欠点を抱えており、実際には起こりえるはずのない事象の数々を扱っていることを私も否定しない。そして、SAKATAMの、物語が精確に作動するか否かを実直に検証した手つきは、佐野洋の手法を思い起こさせる。彼も、小説の細部とそのメカニズムに着目した批評家だったから。そして、佐野洋の批評に接する時の息苦しさを、私はSAKATAMの書評からも同様に感じる。つまり、私は『いざ言問はむ都鳥』の非合理的な部分の論いよりも、〝なぜこのような非合理が現われたのか〟という部分の方が気になるのだ。

《その上で、作者は路傍に散る都忘れの花びらのような、思いがけない細部に光を当て、拡大するとともに、一見かけ離れたものを結び合わせることで、この遠近法をゆさぶり、何かしら別の眺めを垣間見せてくれる。私たちの信じている「世界」が、細部と細部の主観的なつながり成り立っているとすれば、すべての部分を「手掛かり」とみなし、突飛な結合、意想外の(強引な)意味付けをこころがける推理小説の手法は、細部のかけがえのなさを実感させながら、同時に全体としての「世界」の像がいかに脆いものかを明らかにする仕掛けになりうるだろう》

 巽と他の評論家/書評家/批評家を隔絶しているのは恐らくこういった点である。彼は美食家的に作品を見ない。常に作品の非合理を見つめ、かといってそれを非難するのではなく〝なぜこのような非合理が現われたのか〟を見極めようとしている。そして、作品の、推理小説の〝可能性の中心〟を見定めようとしている。無論それによって振り落されてしまう観点もあるだろう。しかし、私はこの方法にこそ推理小説批評の未来がある気がしている。

※1 書評サイト『黄金の羊毛亭』管理人。尚、敬称は省略させていただいた。

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