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『虚構推理』城平京

“ポスト・トゥルース”というトレンドを明敏に察知した、その心意気やよし。ただし、後半の演出に難あり【61】

 この作品が『本格ミステリ・エターナル300』の巻頭に置かれた意味はよくわかる。事件の解決が、その整合性や正当性よりも、その場の空気、ひいてはオーディエンスへのアピールによって、決定されてしまう世界。《鋼人七瀬》の存在はまさにそうした事象を具現化した怪物である。しかし、私が最も興味を抱いたのは岩永琴子というヒロインの存在であった。このヒロインのパーソナリティ自体に特別な魅力はない(ファンの方がいらしたら申し訳ない)が、隻眼隻足という身体的な特徴は明らかに柳田國男の「一目小僧」を下敷きにしており、つまり琴子は事件を解決するための生贄であると同時に事件の解決を精製する神に見立てられているわけだ。ただし、作者は(例えば京極夏彦のように)妖怪や幽霊といったものの考察や蘊蓄に情熱を注ぐことはない。むしろ、妖怪や幽霊、古代からの伝承や都市伝説のレントゲン写真を列挙することで、今も昔も変わらぬ群衆心理の紋様を描き起こそうとしているかのようなのだ。私がこの作品から想起したのは京極の《巷説百物語》シリーズであるが、あの作品群もまた、民衆に納得させる“解決”を“仕掛け”によって捏造していくものだった。無論、《巷説百物語》の前には《なめくじ長屋捕物さわぎ》があり、その前には『半七捕物帳』がある。だから、常々私は“ポスト・トゥルース”の問題を語るためには、そこまで遡る必要があると考えている。そういった意味でこの作品の批評的な価値は高いが、その反面演出的な面でやや問題があると思った。特に終盤、ネットの掲示板で琴子が自らの“推理”を披瀝するシーンは、もっとオーディエンスの書き込みやコメントの流れを“それらしいもの”にするべきであっただろう。なんなら、多少頁数が増えてでも“再現”するくらいの演出があってもよかったと思う。また、アクションシーンにももう少し工夫が欲しい。状況説明だけでは燃える場面も燃えない。『スパイラル〜推理の絆<1>ソードマスターの犯罪』であれだけロジカルな対決を描けていたのだから、出来ないはずはないと思うのだが。怪物との対決(=内側)と琴子の推理(=外側)がより具体的に、より切実に描かれたとき、世界は世界としてより立体的に立ち上がったのではないか。そういった意味でこのシリーズが続いていること、そしてマンガ化・アニメ化されていることは、幸運なことだと思った。

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