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一七三九年の本格ミステリ ― 並木宗輔『狭夜衣鴛鴦剣翅』を読む

はじめに

一、出会い

 私が『狭夜衣鴛鴦剣翅(さよごろもおしどりのつるぎば)』に出会ったのは、古書山たかし氏の手に成る『怪書探訪』(2016年/東洋経済新報社)の中に次のような記述を見つけたことが発端だった。

《江戸中期に人形浄瑠璃のために書かれた並木宗輔の『狭夜衣鴛鴦剣翅』(一七三九年)は、全編強烈なサスペンスが横溢し、どんでん返しが連続する、戦慄すべき傑作だ。この作品などほぼ探偵小説そのものであるし、探偵小説的意外性の衝撃度、残酷なまでにリアルな心理描写、シェイクスピア顔負けの豊穣な語彙などから、世界戯曲史に残る名作とさえいえるのではないか》

 1739年といえば、江戸川乱歩はおろか、黒岩涙香が物した日本初の創作探偵小説「無惨」(1889年)に先駆けること150年前である。果たして、そんな時代にれっきとした探偵小説が成立するものだろうか。とはいえ、古書山氏の褒めようはただ事ではない。よくよく調べてみると、『狭夜衣鴛鴦剣翅』は『新日本古典文学大系』の第93巻『竹田出雲・並木宗輔浄瑠璃集』に収録されているらしい。私は居ても立ってもいられなくなり、図書館に走った。そして、最寄りの図書館に運よく所蔵されていたことをこれ幸いと、私は早速読み始めようとした。ところが、なんと『竹田出雲・並木宗輔浄瑠璃集』には現代語訳がない。頁の前から後ろから舐めまわすように確認してみたが、やはりないのだ。私は途方に暮れてしまった。無論、日本文学の一つの頂点をなす平安文学の古文と比べれば、この江戸時代中期の古文は極めて現代の日本語に近い語彙や語感で構成されており、ある程度は読みやすくはある。しかし、これはあくまでも相対的なことである。事実、(後に詳述するが)浄瑠璃という文芸形式が演じられることを前提とした戯曲であること、また当時の政治世態風俗や過去の史実・文芸作品などの本歌取り乃至諷刺・パロディをその根底に置いた文芸であること、その中でも作者・並木宗輔は著しくその傾向が強い(故に極めて独自の文体を持つ)こと等もあり、学究的研修者ならともかく、一介の読書人には甚だ荷が重い読書であることは間違いないのだ。しかし、大層なご馳走(であるかもしれないもの)を眼前にしながら、指をくわえているという手もない。私は、腹を括ってその書籍を借り、註釈(ありがたいことに註釈は充実している)を頼りに、貸出期間の2週間を目いっぱい使ってどうにか読了を果たしたのであった。

 結論からいえば、『狭夜衣鴛鴦剣翅』は、間違いなく傑作であった。古書山氏の評言に間違いはなかったのである。ただし、私の興味を惹いたのはこの『狭夜衣鴛鴦剣翅』が単に傑作だからということではない。むしろ、『狭夜衣鴛鴦剣翅』は、その構成に一種の破綻や限界を内包しており、しかもその破綻乃至限界は浄瑠璃という文芸形式そのものの限界を示し、尚且つ現代的な視点でも見ると探偵小説の臨界点をも照射しているように見えるからである。そして、これを明らかにするために、私はこの悲劇的な傑作を今日の読者の身近なテキストとしなければならない、つまり現代語訳しなければならないという結論に至ったのである。

 よって、これから私の能力と労力の許す限り、『狭夜衣鴛鴦剣翅』の現代語訳をお送りする。尚、現代語訳を読んでいただける読者諸氏には、下記の事項をご留意願いたい。

(1)『日本古典文学大系〈93〉竹田出雲・並木宗輔浄瑠璃集』(岩波書店/1991年)を底本とする。

(2)当然、私は近世文学の専門家ではない。中古・中世文学のそれより遥かに読み易いとはいえ、古文に関する知識はせいぜい高校卒業程度である。可能な限り、推敲に努めているものの、意訳・誤訳は避けられないと思われる。どうか広い心で接していただきたい。

(3)読者の負担を軽減するため、煩雑を裂け、より小説に近いかたちで現代語訳を行った。例えば、浄瑠璃脚本の場合、本文には台詞の先頭に曲節名という指示記号がつく。これは語り手である義太夫に節付けを指示する記号であり、大きく分けて下記の三つに分類される。
詞・・・劇の台詞に近い写実的な言い回し。
地・・・何らかのリズムとメロディを持ち、通常三味線の演奏を伴う。
色・・・詞と地をつなぐ曲節。
 これは上演の際には必要不可欠なものではあるが、今回は読んでもらうことを前提に現代語訳をしているので、割愛した。

(4)各段の冒頭にその段に登場する登場人物一覧を配した。

(5)必要最低限の註釈を施した。(※○)と表記し、説明は各段末に配した。

(6)各段の後に「解説」を付す。浄瑠璃の成り立ちや作者について、または格段の狙いや読みどころ等を適宜解説していくが、予断を持ちたくない読者は無視していただいて差し支えない。

(7)ご意見・ご感想・ご質問は松井和翠(@WasuiMatui2014)までお寄せ下さい。

(「解説1」へ続く)

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