『囲碁殺人事件』(竹本健治)解説「かすかな悲鳴を」~タツミマサアキ・グレーテストヒッツ(1)~
《『囲碁殺人事件』をひきおこしたのは、この世の規則からいつのまにか抜け落ちてしまった人間、いわばいきながらの幽霊である》
誰が言い出したのか判然としないが、かつて〝黒い水脈〟や〝黒の水脈〟と呼ばれる一派が存在し、風の噂によればそのどす黒い血脈を受け継ぐ者が現代にもいるらしい。中には、その血筋を公然と標榜するさながら現代の天一坊のような者もおるそうで、小心者の私などは、そのうちお上から天誅が下されやしないかと他人事ながら、心配してしまう。
さて、この〝黒〟の一派の共通する特徴として、例えば反推理小説であるとか、衒学的であるとか、ウロボロス(尾を食らう蛇)のように自壊的であるとか、巷間では言われている。これらもまた誰が言い始めたのか判然としないが、おそらくその通りなのであろう。しかし、私が思うに彼らの小説に共通する特徴は、すでに死んでいる者、また本来生命を持たぬ物―簡単にいえば無機物―の方が命を持った登場人物より遥かに生気を持って見えることである。
例えば、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』で登場人物達よりテレーズ人形の方が生き生きと動いて見えるのは澁澤龍彦が指摘している通りであるし、久生十蘭の諸作では物語の中核にいる人物は冒頭の時点で死んでいるか、少なくとも社会的に抹殺されている。また、夢野久作の『ドグラ・マグラ』とて、その原型である「侏儒」まで辿れば、アンポンタンポカン君がかつて「侏儒」の標本であったことは疑いようがないし、中井英夫は……。まあこれぐらいにしておこう。
さて、竹本健治もまたこういう特徴を持っているはずである。だから、巽も次のようにいうのだ。
《『匣の中の失楽』や『ウロボロスの偽書』、さらには『閉じ箱』の諸短編など彼の代表作では、必ずといっていいほどこの種の考えが構想を支配しており、主人公ないし語り手たちは、こうした仕掛けに翻弄され、自分が立っているはずの「現実」に掘り崩されて、はたして自分が存在するかどうかもわからない場所に追い込まれていく》
《自分が存在するかどうかもわからない場所に追い込まれていく》竹本健治の小説中の人物たちは、しかし追い込まれていけばいくほど生気を持って牧場や読者を翻弄していく。だから、『囲碁殺人事件』においても被害者となった槇野九段の存在がせり出してくるのは彼が首を喪ってからなのだ。
以上のことから、竹本健治は〝黒〟の正統な承継者と認定する。誰も言わないような気がしたので試しに私が言ってみたが、それは気のせいかもしれない。なぜなら、巽昌章がすでにそう言っていたような気がしてならないからだ。
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