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『いまさら翼といわれても』米澤穂信

“お前の人生の主人公はお前だ”という過酷な現実を突きつける【67】

 作者の描く語り手たちは、対象からいつも一歩引いている。「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に」をモットーとする折木奉太郎は勿論、《小市民》を標榜する小鳩常悟朗と小佐内ゆきも、『さよなら妖精』を経て後にフリー記者となる太刀洗万智も、やはりどこか一歩引いて事件を観察している。脇役、傍観者、第三者、モブ――。彼らは知ってか知らずか、そうしたポジションに身を置こうとする。しかし、如何に客観的・中立的なポジションに身を置こうとも、自らの人生は自らのものでしかあり得ないし、自らの意識も自らの身体から出ることはできない。本作が教えてくれるのは、というか突きつけて来るのはそうした過酷な現実なのである。実際、「箱の中の欠落」「鏡には映らない」「連峰は晴れているか」でも奉太郎は渦中の外にいたのだ。しかし、謎を解いた時、その謎は外側にいたはずの奉太郎の胸中には、何らかの“跡”を残される(それが“爪跡”なのか”足跡”なのかはわからない)。「わたしたちの伝説の一冊」における摩耶花が直面したのもこうした問題であろう。みんなに気に入られ、巧くバランスを取り、忘れられない青春の一頁をつくる。それでいいのか。その間、自らにしてあげられることは本当にないのか。こうしてみていくと、終わりの二作「長い休日」「いまさら翼といわれても」という題は意味深長である。「長い休日」の先には、さらに長い長いお仕事の日々が待っているのだ。「いまさら翼といわれても」と嘆いたとて、いつかはやはり空は飛ばねばならぬのだ。このソフィスティケイトされた物語の深奥からは、ほとんど脅迫めいた言葉が響いてくる。“お前の人生の主人公はお前だ”。という言葉が――。

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