5「二十年後に」O・ヘンリーvs「発狂」角田喜久雄 ―時の流れ―

時の流れ

「二十年後に」O・ヘンリー(1904)vs「発狂」角田喜久雄(1926)

 時の流れ、というものは残酷だといわれております。
 確かにそうかもしれません。例えばオー・ヘンリーの「二十年後に」なんかを読みますとそんなことを感じます。ニューヨークのレストランの前で二十年後に再会することを約束した二人の男。男の一人はもう一方を待ちながら、古い約束を警官に語って聞かせます。さて、もう一人の男は果たして来るのでしょうか。そして、物語は苦い結末を迎えるのです。さて、私が数ある邦訳の中から、わざわざ『O・ヘンリー ニューヨーク小説集』(ちくま文庫)を選んだのには訳があります。というのも、「二十年後に」本編の後には青山南による次のような注釈が付されているからです。

《だから、ボブは、まだかろうじてフロンティアが残っているときに希望に満ちて西部に「一旗揚げに」出かけたものの、まもなくフロンティアが消滅してしまい、「カミソリみたいに機敏に生きる」術を学ぶことになった。その結果、「シルキー(ひとあたりがよくて口もうまい)という仇名をいただく詐欺師かなにかに、いつしかなってしまったのだろう》

 無論、この《いつしか》が時の流れの残酷さを表すと一般には考えられているのでしょう。しかし、本当の残酷さは《シルキー》という仇名を頂戴することになりながらも、やはり彼が一片の良心―それはsentimentalismといってもいいでしょうが―を捨てきることが出来ないという点あるでしょう。そうでなければ、ラストにおいて彼の手が《小さく震え》ることなどないはずです。

 「発狂」もまた、時の流れを感じさせます。
 仇敵・米田との闘争に敗れ、両足を喪った秋山五郎は、その復讐を息子・敬作に託すべく、幼少期から彼に残忍な教育を施していました。そして成長した敬作は米田に近づき、その娘・敏子をも籠絡。彼女に〝疵〟をつける計画を推し進めていくのです。しかし、敬作の計画にはある決定的なミスがありました。しかしそれは、犯罪計画の不備でもなければ、事前調査の甘さなどでもありません。彼を狂わせたもの、それは自らの良心、それも心の深奥に隠されたたったひとかけらのsentimentalismを見抜けなかったことだったのでした。

 この二つの作品は、人間は真に残酷になれるほど強い生物ではない、という、実に良心的な教訓を与えてくれるようです。

【底本】「二十年後に」…『O・ヘンリー ニューヨーク小説集』青山南+戸山山翻訳農場・訳(ちくま文庫)/「発狂」…『日本探偵小説全集〈3〉大下宇陀児・角田喜久雄集』大下宇陀児・角田喜久雄(創元推理文庫)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?