ノンフィクション ~Ⅳ 歴史~ 『渋江抽斎』森鴎外(1)

【ミステリーカット版『渋江抽斎』をつくる】

   


 『渋江抽斎』をノンフィクションとして読むということ、さらにミステリとして読むことは果たして可能だろうか。
 前者に関しては問題なく可能だろう。『渋江抽斎』は一応〝史伝小説〟という分類になってはいるが、鴎外がこの小説を書くために試みた手法は現代のノンフィクション・ライターが一編のノンフィクションを物すときに用いる手法と何ら変わりがない。例えば、「その四」で《渋江氏》と《抽斎》が同一人ではないかという推定をたて、それを確かめるために《長井さん》《飯田さん》《外崎さん》らを訪ねて周り、「その八」で遂に渋江抽斎の一子と邂逅を果たすあたりまでの遍歴はまさに事件ノンフィクションの醍醐味を味わわせる。
 中公文庫の内容紹介が、

《推理小説を読む面白さ、鴎外文学の白眉。弘前津軽家の医官の伝記を調べ、その追求過程を作中に織り込んで伝記文学に新手法を開く。》

と記しているのも、こういった点を指してのことだろう。
 また、『渋江抽斎』を〝推理小説〟に擬しているのは何も中公文庫に限ったことではない。
 例えば、加藤周一は次のように述べている。

《私には、探偵小説、世にいわゆる推理小説なるものを、読む習慣がない。犯罪事件があって、そこにいくつかの手がかりがあり、犯人探しの推理小説を読者が愉しむ―そのしかけがあまりに簡単ならば、推理の面白さはないし、あまりに複雑ならば、話の全体が荒唐無稽になるだろう。
『渋江抽斎』は、もちろん探偵小説ではない。しかしいきなり江戸時代の学者の伝記ではなくて、その時代の他の文献を渉猟していた作者鴎外が、偶然主人公の名前に出合い、多くの人々に問い合わせ、その人物を固定し、子孫を発見して、次第に詳しく主人公とその周辺についての情報を手に入れる過程の叙述から、話がはじまっている。その過程の面白さは、大いに探偵小説のそれに似る。一方が犯人探しならば、他方は抽斎探しである。いずれにしても、そこには、探しながらの忍耐や焦り、期待や失望、僥倖や不運が、出そろっている。
 しかし探偵小説では、犯人がつきとめられたら、話は終わりで、その先には何もない。犯人はつまらぬ男(または女)だから、―というよりも、犯人には犯人としての役割しかあたえられていないからである。ところが抽斎は、探しあてられたときから、次第に深く、次第に多面的な人格としてあらわれ、作者を、したがってまた読者を、魅了する。『渋江抽斎』は単に探偵小説のように面白いのではなくて、探偵小説以上に面白い。この主人公のどこが、鴎外を捉えたのだろうか。》

 しかし、現代を生きる私たちは、一見もっともらしいこの加藤の指摘に喜んでばかりもいられないのだ。《探偵小説、世にいわゆる推理小説なるものを、読む習慣がない》加藤の探偵小説/推理小説観は《犯人がつきとめられたら、話は終わりで、その先には何もない》という程度の幼稚なもので、そこに現れる犯人像についても《犯人としての役割しかあたえられていない》《つまらぬ男(または女)》でしかないというこれまた幼稚な偏見でしか語られていないのだから。推理作家にとって、《犯人がつきとめられたら、話は終わり》というだけの話をでっちあげることはむしろ難しいことであろうし、《その先に何もない》小説を書き継いで生き抜いていくほど出版の世界は楽ではないはずである。
 ただし、心優しい読み手であれば、彼の探偵小説/推理小説観を彼の生きた時代の限界として庇いだてしてくれるかもしれない。無論、それには及ばない。なぜなら、仮に彼の探偵小説/推理小説観が江戸川乱歩や松本清張あたりで止まっていたとしても乱歩や清張自身が加藤の探偵小説/推理小説観から大きく逸脱する存在であることは間違いないし、例えば『深夜の散歩』一冊を紐解けば加藤だって同時代を生きた丸谷才一や福永武彦程度まではその探偵小説/推理小説観を更新する余地はあったはずなのだから。しかも、加藤は《鴎外が、偶然主人公の名前に出合い、多くの人々に問い合わせ、その人物を固定し、子孫を発見して、次第に詳しく主人公とその周辺についての情報を手に入れる過程の叙述から、話がはじまっている。》と語り、《その過程の面白さは、大いに探偵小説のそれに似る。》と結論付けるのだが、それは先に触れたように「その一一九」まである章立ての中の僅か「その八」までの話に過ぎない。残りの一一一章はその伝聞内容の記述なのである。また、加藤は同時に《抽斎は、探しあてられたときから、次第に深く、次第に多面的な人格としてあらわれ、作者を、したがってまた読者を、魅了する。》と記している。そして確かに鴎外は抽斎の人となりを《多面的》に叙述してはいる。ただし、肝心の抽斎は小説の半ば「その五三」で不帰の客となり、物語から退場してしまうのである。もちろんその後小説の中で抽斎が一切触れられないというわけではないものの、少なくともその《多面性》を顕わにするような物語の中心ではなくなっているのだ。
 しかし、ここは加藤周一の浅薄な探偵小説/推理小説観を難詰する場ではない。問題は、そのような障害が持ちながらも、なぜ加藤が『渋江抽斎』を《単に探偵小説のように面白いのではなくて、探偵小説以上に面白い。》と感じたのか、ということだ。
 果たして、『渋江抽斎』のどこが、加藤周一を捉えたのだろうか。

  ※

 もし『渋江抽斎』を推理小説として読むのであれば、『渋江抽斎』には作品全体を貫く謎と意外な解決とがなければならない。そして、推理小説として書かれたわけではない『渋江抽斎』から、その謎を見つけようすればそれは「抽斎その人」となるのは必定だろう。加藤周一が、《抽斎は、探しあてられたときから、次第に深く、次第に多面的な人格としてあらわれ、作者を、したがってまた読者を、魅了する。》と記したのもまさにこの謎を指してのことに違いない。だが、ここに大きな罠がある。
 『渋江抽斎』において、「抽斎その人」は謎の中核ではないし、ましてやこの小説の主役ですらないのである。では、『渋江抽斎』における謎の中核、真の主役とは誰なのか。
 単刀直入にいえば、それは抽斎の五番目の妻・五百に他ならない。そして、『渋江抽斎』全体を貫く謎は〝なぜ五百は渋江抽斎のもとに嫁いだのか〟なのである。

  ※

 しかし、実は加藤を始めとした多くの読者がこの謎を把握できないのも無理はないことなのだ。『渋江抽斎』における〝なぜ五百は渋江抽斎のもとに嫁いだのか〟という謎は推理小説の文法に則っていえば〝Who done it(=誰が犯行を行ったか)〟ではなく〝Why done it(=なぜ犯行を行ったか〟である。そして、探偵小説/推理小説が精々犯人当てで終わるものだとしか考えていない読者がこれを理解することは土台無理な話なのだ。また、『渋江抽斎』自体が「抽斎その人」を追うという発端から始まる以上、この謎は巧みに読者の眼から秘匿されてしまう。特に、小説の前半は抽斎自身に関する微に入り細を穿って展開される著述が、『渋江抽斎』最大の謎のミスディレクションとなって、読者の目を覆い隠してしまうだけでなく、あまつさえ、その瞼まで重くしてしまうのだ。試しに、「その十」において、渋江抽斎の祖に触れた部分を抜き出してみよう。

《渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国那須郡大田原の城主たる宗家ではなく、その支封であろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、清信、扶清、友清などの世であったはずである。大田原家は素一万二千四百石であったのに、寛文五年に備前守政清が主膳高清に宗家を襲がせ、千石を割て末家を立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今手許に末家の系譜がないから検することが出来ない。
 辰盛は通称を他人といって、後小三郎と改め、また喜六と改めた。道陸は剃髪してからの称である。医を今大路侍従道三玄淵に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽越中守信政に召し抱えられて、擬作金三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永と改元せられた年である。師道三は故土佐守信義の五女を娶って、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政に随って津軽に往き、四年正月二十八日に知行二百石になり、宝永七年には二度目、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守信寿の世になっていた。辰盛は享保十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。出羽守信著の家を嗣いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を享くること七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。》

 万事がこの調子である。このような叙述が続けば、読者は「抽斎その人」が謎の中核にいると思ってしまうのも無理はないし、それ以上にこのような叙述が続く作品を現代の読者が読み通すのは大変に苦痛の伴うことだろう。
 そこで私は、この『渋江抽斎』の〝ディレクターズカット〟版ならぬ〝ミステリーカット〟版を編集しようと思い立った。この着想は今年春秋社から刊行された『ミステリーカット版 カラマーゾフの兄弟』から得たものだ。このような形式にすることで、多少なりともその読み難さを緩和できるのではないかと思うし、またそれによって謎の焦点を絞ることもできるのではないだろうか。
 それでは、次章から〝ミステリーカット〟の内容を本編「その一」から内容のまとまりに従い、幾つかのタームに分けて検討していこう。

(2)へ続く

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