ワナビーという言葉

作品は作っているけれど、勢いはぼちぼち。やれることを全てやっている とは言えない。誰か自分よりも賢くて有名な人が、自分の作品のいいところを見出してくれないだろうか。たまにはコンペに出す。受かればなにかが変わって、自動的に「作家」になって、具体的にすることが次々と決まっていくような、そういうラインに乗るんじゃないかなと想像する。ただ、それがどんなラインなのかはわからない。コンペがダメだった後は1ヶ月ぐらいなにもしない。嘘、1ヶ月なら良いほうだ。ショックで手が止まるのではなく、コンペの締め切りに背中を押されないと作品をまとめる気にならない。アイツはバカ、コイツはなにもわかってない、なんでコイツが評価されて自分はダメなのか、わからない。

自己紹介をしてみた。ひどい有様だ。こんなことを何年も繰り返し、停滞している私は、心の中で自分をワナビーと呼んでいる。”want to be“を縮めて”wannabe”。なにかになりたい というだけの人。カタカナにするとワナビー、すごい言葉だと思う。私の中で、この言葉のイメージは世間一般のそれよりも随分過激だ。まずはそう、アホみたいな響きだなと思う。さらに目的意識の低さや、具体的な努力がぜんぜん想像できない感じまで盛り込まれていて 罵倒性能が高い。かなり研ぎ澄まされている。be動詞の静的な印象が、いいようのないどん詰まり感を生み出す。なにかをこき下ろすときにだけ異様な輝きを放つワード。その輝きは紛れもなく刃物の白光で、死体のような自分の停滞を切り裂くのにふさわしい…と厨二病的な自虐の気分になるが、それでも言いたい——この状態であることは、苦しい。

苦しい。たとえ手が動いている時でも、まとめる段階になるとつらい。行き先が見えないからだ、着地点はどこにあるのか。状況が掴めない、環境を知らない。
作家になるというのがどういうことなのか、その過程、その後の状態はどんな風なのか、想像できない。

ワナビーでいるのは苦しい。いや、苦しかった。正直なところ、楽になってきている。劇的な出会いがあったわけではないし(ありがたい出会いはいくつもあった)、なにかを成したわけでもない。ただ単に苦しみを乗り越えたのだと思う。10年間、ワナビーでい続け、悩みを突つき回し続けて、そのうちいくつかなだめることができたというだけだ。
A5ノート数冊、歴10年以上のツイッター、書き散らかすことで考えてきた。見返すと、たった数年前のことでも 当時の気持ちを文章にすることはできないと分かる。つまり 今しか書けないことがある というやつだ。恐ろしく手垢のつきまくった表現、自分でも酷い文だと思う。これまで文章を書くことから逃げ続けてきたので、当たり前だ。それでもあの苦しみをまさにいま味わっている人に向けて、私ボロカスのワナビーから、ぐちゃぐちゃどろどろのワナビー氏へ、書くことにした。

写真について Vol.1 に掲載中

この文章はセブンイレブン ネットプリントで配布した「写真について Vol.1」の一部です。内容の紹介はこちら
配布期間:2022/03/27 23:59まで

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