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祝祭はキスのあとに。 6話

『華谷くんがアメリカ行ったのって、吉野くんのせいなんだって』
『そんなに楽器だけに打ち込みたいなら、吉野くんが留学すれば良かったのにね』

『俺の最推しはなーちゃんだし?』
『七斗、ごめんね』

 女子たちが話していた噂話と、華谷がこれまでに発した言葉。あれから何度も思い返しては、そのたびに頭の中が混乱している。
 あれだけ思わせぶりなことを言っておいて、実は華谷は俺のことを嫌っているのかもしれないということ。
 詳細は分からないけれど、少なくとも俺のせいで、華谷は海外へ行く選択をしたらしいということ。

 ……やっぱり、華谷は俺に愛想を尽かし、俺を置いて行ってしまったのだろうか。

「吉野!」

 昇降口でイヤホンを外した瞬間、もやつく心の内とは対を成すような明るい声が背後から聞こえる。振り返れば、ひょろりと背の高い前部長が立っていた。

「須藤先輩! 登校してたんですか!?」
「うん。実は先月、推薦で進学先が決まってさ」
「えっ!?」

 次々と登校する生徒の流れを避けるように壁際へ移動して、久しぶりに言葉を交わす。
 吹奏楽部に所属する一方で運動神経が良く、体育祭の部活対抗リレーではいつもアンカーでどんでん返しの大活躍を見せていた須藤先輩。成績も良いそうだからてっきり内部進学をすると思い込んでいたが、彼は意外にも地元の国立大の名前を挙げた。

「嘘……あっ」

 思わず正直な反応を返してしまい、慌てて口をつぐむ。付属高校であるだけにてっきり大学でも会えると思っていたから、喜びよりも先に寂しい気持ちが勝ってしまった。

「もしかして驚かせた? 吉野と進路の話はあまりしたことなかったよな」
「す、すみません! 実は祝央大に進学されるのかと、てっきり……」
「いやー、俺兄弟多いし、大学まで私立は無理だって。でも教育学部の音楽専攻だから、進学後も相変わらず楽器やってると思うよ」
「そうなんですね。合格おめでとうございます」

 教育学部ということは、音楽の先生を目指すのだろうか。自分と違って須藤先輩はコミュ力の塊みたいな存在だから、教職という道は非常に合っているように感じる。

「吉野は最近どう? 部長の仕事にも慣れてきた頃かな」
「う……」

 もしかしたら聞かれるかもと、頭の片隅では身構えていたものの。
 実際に尋ねられると、案の定上手く答えられずに口ごもってしまう。

「ま……まぁ、これまで先輩の背中を見てましたから。最近はイベントもそこまで立て込んでませんし、なんとか……」
「はは、そっか。そういえばクリコンももうすぐだったね」

 せっかく自分の後継にと指名してくれた先輩に堂々と良い報告ができず、情けない気持ちになる。当時は自信満々で引き受けたはずだったのに、今や同期の部員に気を遣われる有様だ。けれど先輩はこちらのぎこちなさを咎めるでもなく、からりと笑って見せた。

「部長って孤独だし、悩みごとばっかだよな。俺も結局引退するまで飯田先生に相談してばっかだったし」
「えっ、須藤先輩が!?」
「もちろん。同期にもずいぶん助けてもらったなー。作文とかマジ苦手で、校内誌に載せる部長のコメントとか、チューバのナベさんにずーっと書いてもらってたから。ウケるっしょ」
「ええ……」

 いつも何事も元気にこなしているように見えた須藤先輩にも、苦手なことがあったのか。完璧だと思い込んでいた先輩の人間らしい一面を垣間見て、少しだけほっとする。

「それに、この前華谷くんも褒めてたよ。吉野のこと」
「は? なんであいつが!?」

 唐突に発された華谷の名前に素で反応してしまい、すみません、と口をふさぐ。
 けれど後輩の反応に嫌な顔ひとつせず、須藤先輩は「実はさ」と楽しそうに続けた。

「俺、最近あいつとよく飯行くんだよ」
「え、華谷とですか!?」
「うん。ウィンスタで見つけたとか言って、学校の近くにあるラーメン屋教えてくれるんだよな」
(なんだそりゃ……)

 須藤先輩から部長を引き継いだ自分を差し置きサシで飯に行くなんて、なんと図々しいことか。しかも途中入部の分際で。
 嫉妬やら憎しみやらの炎をめらめらと燃やす俺に反して、彼は楽しそうに笑った。

「あいつさ、冗談抜きでいつも吉野の話ばっかなんだよ。今日は体育の授業でペア組んだとか、食堂で珍しくプリンが売ってて嬉しそうだったとか、マジで何でも俺に教えてくれてさ」
「はぁ!?」
「俺さ、安心しちゃった。転入生で吹部入った話って、実際聞いたことなかったから。学校も部活もちゃんと馴染めてんのかなって思ってたんだけど、あの感じじゃ全然大丈夫そう。それに中学から一緒って聞いてたけど、吉野も華谷くんからすごい愛されてんだね」
「あい、っ……!? そ、そんなんじゃないですから!」

 気さくな笑顔でさらりと発された言葉のせいで、顔が燃えるように熱い。須藤先輩にとんでもない勘違いをさせた本人がもし隣にいたら、力任せにぶん殴っていたことだろう。

「まぁ、それでも吉野ならできると思ったから、俺たちは君を部長に選んだわけで」

 立ち話をする俺たちを急かすように、頭上のスピーカーから予鈴が鳴る。
 ちらりとスマホの画面に表示された時計を確認した先輩は、顔を上げて微笑んだ。

「楽器がやりたくて、みんなで演奏したくてこの部活にいるのはどの部員も一緒だから。リーダーとしてお高くとまるのが部長の役目じゃないし、他の部員と同じように楽しんでいい。それに自分にはいつでも味方がいるってこと、忘れんなよ」
「……!」

 そう言い残して、手を振り振り教室へ歩いて行く須藤先輩。
 教室へ急ごうとする生徒の波に取り残されながら、俺は人ごみに紛れて行く先輩の後ろ姿をぼんやりと見つめる。

(『味方』、か……)

 ぶん殴りたい相手は、今隣にはいない。
 行き場のない感情に困って、俺は手のひらに収まったままになっていたワイヤレスイヤホンをぎゅっと握りしめた。 

♩ ♩ ♩

 その後も華谷との適切な距離感を掴めないまま、日付ばかりが過ぎて――
 あっという間にクリスマスコンサートの当日を迎えた俺たちは、ステージに上がる順番を待っていた。

 今回参加するイベントは街としてはそれなりに規模の大きな催しで、駅前の広場に組まれたステージでは他にも地元の合唱団やらギター同好会やら、様々な団体がパフォーマンスを披露することになっている。
 ステージ以外にもイルミネーションが行われたりクリスマスにちなんだメニューを販売する屋台が出たりと、なかなか見どころの多いイベントだ。

「寒っ……!」

 駅に隣接するショッピングセンターのバックヤードを控室として借りていた俺たちだったが、本番が近付き一同揃って屋外のステージ袖へと移動する。
 陽が沈んだ後の屋外はさすがに演奏する手がかじかんでしまいそうな温度で、トランペットを持っていない手でポケットの中に入れたカイロを握りしめた。

「俺もサンタ帽が良かったのに」
「早い者勝ちですー。さっきまで『俺は余り物でいい』とか余裕こいてたくせに」

 サンタ帽を被った冴里は勝ち誇ったような表情だ。同じくサンタ帽を被る華谷は、俺の頭の上に乗っかるトナカイのカチューシャを、つんつんとからかうようにつついた。

「似合ってるよ、なーちゃん。後でツーショ撮らせてね」
「断る」

 あれだけ俺に酷い言葉をかけられたくせに、華谷の態度は全く変わらない。
 華谷が考えていることは相変わらず分からなくて、もしかしたらあの時のことだって微塵も気にしていないのかもしれない。
 今思えば、部活でもクラスでも、変わらず接してくれる華谷の態度が少しだけありがたかった……なんて、口が裂けても言えないけれど。

「華谷、俺のと交換しろよ。お前の方が何被っても似合いそうだし」
「ちょっとそれは難しいお願いかなぁ。俺の席でこれ被ったら後ろの人見えなくなっちゃうし、なーちゃんが着けた方が可愛いし。あ、でも今からなーちゃんがミニスカサンタやってくれるなら貸してあげてもいいかも」
「華谷あんた相当キモいこと言ってる自覚あんの?」
(駄目だこりゃ……)

 後輩に呼ばれ、冴里は自分のパートの輪へと戻っていく。

(……順番まで、あと五分くらいか)

 ステージの上では、大学生と思しきメンバーで構成されたアカペラのサークルがクリスマスソングを歌っている。
 観客の手拍子と共に盛り上がるステージを、華谷はどこか懐かしげな表情で見上げた。

「日本のステージで演奏するのって、かなり久しぶり。流石にちょっと緊張するかも」
「ふん、せいぜい雰囲気に呑まれないようにしろよ」
「それはなーちゃんもかもよ?」
「え?」

 周囲の音に紛れて聞き間違えたのではないかと、華谷を見上げる。
 けれど華谷は、こちらを向いてにやりと不敵に笑った。

「ステージの上では、何が起こるか分からないからね。その場の雰囲気に合わせる即興性も大事だよ、なーちゃん」
「な……!? んなこと分かってるよ!!」

 華谷の生意気な物言いに、かっと頭に血が上る。
 反論する隙もなく客席からは拍手が湧き、あっという間に演奏の順番を迎えてしまった。

 ステージの最前列に座る桐生が、繊細なラの音を奏でる。
 オーボエの音色に重ねるように管楽器のチューニングが響けば、一瞬で客席の温度が期待で高まるのを感じた。

 ――こんばんは、祝央大学付属高等学校吹奏楽部です。
 ――僕たち、私たちはコンクールや学校行事で演奏するため、日々練習に励んでいます。今日は代替わりで最高学年となった二年生が中心となって選んだ、クリスマスにちなんだ曲をお届けできればと思います。
 ――それでは、今日はどうぞお楽しみください。メリークリスマス!

 ここからは、楽しい本番だ。ノリノリでサンタ服に身を包んだ飯田先生の指揮と共に、先ほど華谷の言葉に憤慨したせいで温まった手でトランペットを高く持ち上げた。

 ラストクリスマス、くるみ割り人形、アンサンブルコンペティション出場メンバーによるカルテット。
 途中で一年生によるMCを挟み、パフォーマンスはあっという間に時間は過ぎて行く。

 最後に披露するクリスマスソングメドレーは、クリスマスの定番曲をジャズにアレンジした一曲だ。
 聴き慣れた曲の数々に、客席に座る子供たちも楽しそうに手を叩いてくれている。

 ジャズと言えば、アメリカ帰りのヤツの独壇場だ。飯田先生の指揮に促され、前方の席からソロパートを任された華谷が得意げに立ち上がった。こちらに背中を向け、客席に向かって堂々と構える華谷に、スポットライトの眩い光が降り注ぐ。

(カッコつけて音外すなよ、華谷)

 暗闇の中、しばしサックスの音色に耳を傾けようとトランペットを下ろしかけた瞬間――
 なぜかぱっと視界が明るくなり、その眩しさに思わず目をつぶった。

(――え、なんで!?)

 なぜか自分にもスポットライトが当たっていることに気付いたのは、それからすぐのこと。
 楽器を吹きながらこちらを振り返り、にやりと笑いかける華谷。そしてこちらに立ち上がるよう満面の笑みで合図を送る飯田先生。
 同じくからかうような視線を向ける部員を見て、俺は完全に嵌められたことを理解した。

(嘘だろ……!?)

 部長としての自分の関与はそこそこに、運営メンバーたちに任せていたらこうだ。
 ――『その場の雰囲気に合わせる即興性も大事』。
 まさか華谷は、このことを言っていたのではあるまいな。

 今年のコンクールではトランペットパートのトップに選ばれた演奏者、ましてや部活を率いる部長たるもの、スポットライトに照らされて何もしない間抜けでいる訳に行かない。

 ――ええい、ままよ!

 ライトの光を受けて輝くトランペットを高らかに掲げ、俺は力任せに息を吹き込んだ。

 ナルシストにビブラートをきかせまくる華谷を牽制するように、客席に向かってハイトーンを響かせる。
 調子に乗るなよ華谷響。この一年半、お前だけが上手くなったと思ったら大間違いだからな。
 祝央の吹奏楽部で、楽しい一年半を過ごせなかったことを後悔させてやる。

『必ず上手くなって、必ず七斗のところに帰ってくるから』

 これまでの人生、楽譜に並べられた音符ばかりを追っていた自分からしたら、ジャズもアドリブも正直あまり得意じゃない。けれど――

『完璧じゃなくても、お客さんは満足してた。それだけで十分でしょ?』

 華谷が言っていたことが、ようやく腑に落ちた気がする。
 完璧じゃなくていい。ちょっとくらい失敗したっていい。
 譜面に書かれた通りの演奏じゃなくても、お客さんが楽しんでくれるのなら、どんなパフォーマンスだっていい。
 互いに視線を交わらせながら、華谷と俺は掛け合うようにアドリブを奏でて行く。
 やがて指揮者の合図でマウスピースから唇を離すと、わっと観客席から歓声が沸き起こった。

(あ……)

 笑顔で拍手を送る人々の姿に、数年前に見た景色が重なる。
 観客席はいつの間にか座り切れないほど人が集まり、ステージを見下ろす駅の構内にまでオーディエンスが溢れていた。

(……そうだ)

 静かに悟った瞬間、つんと鼻先が熱くなる。
 自分はこの瞬間が、この世の何よりも好きだったんだ。
 ふたりでスポットライトを浴びて、自分たちの演奏で、たくさんのお客さんが喜んでくれる、その瞬間が。
 もしかしたらこの瞬間を再び用意してくれたのは、華谷だったのかもしれない。
 感情が溢れ出しそうになるのをぐっと堪えながら、俺は再び自らの席で演奏に戻る華谷の背中を見つめていた。

♩ ♩ ♩

 例年と異なる構成で挑んだクリスマスコンサートは、盛況のうちに幕を閉じた。
 再び音楽室へ戻ったものの、無事に演奏を終えた達成感と疲労とで、とても後片付けまでする心の余裕がない。片付けは週明けに回すことにして、俺は上機嫌に帰宅していく部員をひとり、ふたりと見送った。

 ぱたんと防音の分厚いドアが閉じられると、音楽室には俺と華谷が残される。
 振り返れば、窓際にもたれるように華谷は立っていて――
 どちらからともなく互いを見つめ合いながら、しばしの沈黙が流れた。

「あの、鍵……」
「俺が返すって言ってるから大丈夫」

 だからなーちゃん、こっちおいで。

 華谷に促され、俺は窓際に立つ彼の元へ歩いていく。
 室内は暖房がきいているけれど、窓際はひんやりとした外の気配を感じる。
 澄んだ空気の中、人のいない校庭のグラウンドを月明かりがぼんやりと白く照らしていた。

「なーちゃんに話してないことがあったね」

 俺を見下ろす華谷の瞳は、お祭り騒ぎを終えた後の静かな夜の色だ。少しだけ言葉を選ぶように視線を漂わせ、彼は小さく息を吸った。

「俺が、どうしてアメリカに行ったのか――」
「知ってるよ」
「え?」

 ぶっきらぼうに答えれば、華谷はぱちぱちと瞳を瞬かせる。

「俺のせいでアメリカ行ったんだろ、華谷。俺のことが嫌いで、俺から離れたくて留学したんじゃないのか?」
「何それ。誰から聞いたの」
「女子が話してるの聞いたんだよ。誰の声かは分かんなかったけど」
「なるほど……クラスの子かな」

 別にそんなつもりはないのに、拗ねた子供みたいに不貞腐れたような声になってしまう。反して落ち着いた様子で話を聞いていた華谷は、なぜかくすくすと肩を揺らして笑い出した。

「なーちゃん、そんなこと信じてたの? こんなに日々俺はなーちゃんに愛を注いでるって言うのに……」
「お前が普段から何考えてるか分かんないからだろ!」
「ええ? 俺、そんなに分かりにくい?」

 華谷は困ったように眉を下げながら、「でも」と続けた。

「なーちゃんがきっかけで、っていうのは間違いない。正しくは、なーちゃんにふさわしい男になるために、武者修行へ行ったって感じかな」
「は? 何だよそれ」
「俺さ、叔父さんっ子なんだよね。俺の家のこと、なーちゃんにもこれまであんまり話したことなかったかもしれないけど……光(ひかる)のこと、覚えてる? あいつ、生まれた頃からだいぶ身体弱くて。親も光につきっきりで、俺は音楽関係の仕事やってる叔父の家に預けられることがしょっちゅうだった」
「光くん……俺たちが中学生の頃は、保健室登校してるって言ってたよな」
「うん。最近は元気だけどね」

 光とは、華谷の年の離れた弟のことだ。
 華谷の家族の話を聞く機会はこれまでも決して多くはなかったけれど、光くんがいるために華谷が年齢の割に大人びていることは、彼の様子から何となく察していた。

「ちょうど小学校を卒業する頃から叔父はアメリカに拠点を移してたから、俺もちょっと居候させてもらうことになって。留学することは、実は中学最後の定期演奏会の少し前くらいにもう決まってたんだ。言ってなくてごめんね」
「……そう、だったのか」

 初めて聞く事実に、なんて言葉を返せば良いのか分からない。一方で華谷はすっきりとした表情だ。

「俺、なーちゃんと中学三年間吹奏楽やれて、本当に楽しかった。でも、なーちゃんの隣でずっと楽器を吹き続けるには、もっと上手くならないと駄目だと思ったから」
「え……おい、何言ってんだよ。努力が必要なのは、お前より経験が短い俺の方だろ!」
「そんなことないよ。だってなーちゃん、すぐ俺に追いついちゃうんだもん。俺、小学生の頃からサックスやってたんだよ?」
「追いついてなんか……当時は俺が初心者だったからで、足引っ張る訳にもいかなかったし――」
「それだよ」
「!」

 静かな声で告げられ、思わず口を閉じる。俺たちの対角線上、壁際にひっそりと鎮座するグランドピアノに、華谷はちらりと視線を送った。

「なーちゃんはさ、俺が持ってないものいっぱい持ってんの。例えば、耳で聴いた音をすぐにピアノで再現できるでしょ? それに演奏曲ひとつ取ったって、これは何がテーマだとか作者のどんなメッセージが込められてるとか、譜面の裏にある情報も読み取ろうとするよね。それに、毎日の基礎練だって絶対に欠かさない」
「そ……んなの、演奏者なら当たり前だろ」
「本当に? じゃあ同期も全く同じことできてる? 実際はなーちゃんや吾郎ちゃんから言われてやってることだったりしない?」
「それは……」

 肯定も否定もできなくて、思わず口をつぐむ。
 そんな俺を見下ろしたまま、「俺だってそうだよ」と華谷は真剣な表情で頷いた。

「なーちゃんと一緒に音楽やって、自分の足りなさに気付かされることも多かった。毎日真剣に音楽に向き合うなーちゃんの姿勢に比べたら、俺なんてまだまだだよ。だから一回、ひとりで環境変えて音楽に向き合ってみたいと思った」
「…………」

 ――華谷はいつだって、やすやすと俺の目指しているものを超えていく。
 ――なーちゃんはさ、俺が持ってないものいっぱい持ってんの。

 ひとりで悩むくらいならどうして話してくれなかったんだ、と言いかけた言葉を飲み込む。
 だってそれは、自分だって同じで。お互い全く同じことを考えていたという事実にようやく気付いて、同時にあまりのもどかしさにむかむかしてくる。
 要するに俺たちは、勝手に相手と比較して絶望して、勝手に相手から距離を取っていただけだ。

 勝手にひとりで判断した華谷を叱り飛ばしたいやら、完全にお互い様な自分への反省やら。ぐちゃぐちゃになった感情に混乱しながら、俺はぐっと華谷を見上げた。

「それで……今日の演奏はどうだったんだ。修行とやらの成果はあったのか?」
「うん。最高に楽しかったよ。またなーちゃんとスポットライトを浴びることができて……本当に嬉しかった。日本に帰ってきて良かった、って思った」
「っ……」

 そう言って幸せそうに笑う華谷を見たら、許さずにはいられない訳で。
 いつもみたいに嫌味をぶつける前に、ぼろり、と目から涙がこぼれてしまった。
 歪んだ視界に、華谷の驚いた顔が映る。

「え、なーちゃん……?」
「俺は……ずっと寂しかった」

 一年以上溜め続けたダムが決壊するみたいに溢れ出した涙を、止めることができない。
 顔がぐしゃぐしゃになるのにも構わず、俺は思いのままを口にした。

「お前は俺のこと、昔っから天才って言いたがるけど……別に俺は天才なんかじゃない。前を行く華谷の隣に並びたくて、ずっと努力してきただけだ。高校だって、これまでと同じように一緒に部活やるつもりでいたのに……急にお前がいなくなって、俺はどうしたら良いか分からなかった」

 『君って、誰かと一緒に吹いてないと本領発揮できないタイプだったりしない?』
 一年生の時、コンクールの出場メンバーを決めるオーディションで、落選と共に飯田先生から言われた言葉だ。
 何が誰かと一緒じゃないとだ。俺は俺の人生を生きる。生きてやる。部活や練習に対して再びエンジンがかかったのは、あれからのことだった。

 寂しくて、悲しくて、悔しくて、楽しかった中学での思い出を打ち消すように練習に励んで。
 次第に周囲が驚くような音を出せるようにはなったけど、どのステージに立っても、華谷とスポットライトを浴びた時に感じたような興奮は得られなかった。

「今の俺の技術が、華谷に劣ると言わせるつもりはない。絶対に、お前に負けないくらい練習してきたって誓えるからな。でも、実際のところは……ひとりで焦るばかりで、心から音楽を楽しめてなかったのかもしれない」
「なーちゃん……」
「だから……もう勝手にどこかに行くな」

 華谷が秋に転入してきてからすぐ、親にあいつが帰ってきたことを話した。
 母親には、良かったじゃない、一年半なんてあっという間よね、なんて言われたけど……大人にとっての一年半と、高校生にとっての一年半なんて全然違う気がする。
 だって高校生という青春の半分の時間を、俺たちは一緒に過ごせなかった。半分以上のステージで、一緒に演奏できなかったということなのだから。

 ただでさえ格好いい男の前でこんな醜態晒して、恥ずかしいったらありゃしない。
 相変わらず止まらない涙を制服の袖で乱暴に拭う俺を、華谷は強く抱きしめた。

「……!」
「もうどこにも行かないよ。俺はもう、なーちゃんの元を離れない」
「っ……」

 耳元で囁かれた言葉に再び感情がこみ上げて、ぎゅっと奥歯を噛みしめる。
 その声はいつもよりどこか必死で早口で、いつでも余裕ありげな彼らしくなかった。

「俺だって……海外に行って気付いたよ。やっぱりなーちゃんがいないと面白くないなって。アメリカの生活は新鮮だったし楽しかったけど、本当は向こうで見たどの景色も、なーちゃんと一緒に見て、一緒に共有したかった。早く自分が納得できるくらい楽器が上手くなって、早くなーちゃんの元に帰りたいって、ずっと思ってた」

 そうして、彼はふわりと身体を離す。
 こちらの肩に両手を置いたまま、なーちゃん、と華谷はまっすぐに俺を見つめた。

「俺はなーちゃんのことが好き。なーちゃんはたぶん、生まれた時から音楽の神様に愛されてると思うけど……俺は神様以上に、君のことを愛してる」
「華谷……」

 涙で滲む視界でぼんやりと華谷を見つめたまま、心臓がとくん、と音を立てる。数週間前、キスの誘いを拒んだ時とはまた違う、柔らかな胸の高鳴りだ。
 華谷の視線が、言葉が、今、自分だけに向けられている。
 ――けれどいざ告白されると、これまで溢れていた涙はすうっと引っ込んだ。

「……なんだよ、そのキモい例え」
「本当だってば! 初めて会った時から、俺の目からなーちゃんはそう見えてたの!!」

 まるで君が俺のプリンセスだと言わんばかりに、華谷はミュージカル映画の主役よろしく歯が浮きそうな言葉を並べ始める。

「俺は楽器を始めた時から、いつか自分の隣で演奏してくれる運命の相手をずっと探してた。互いに練習に打ち込んで、互いに高め合えるような、そんな相手をね。だからなーちゃんが俺と一緒に音楽やってくれて、本当に嬉しかった」
「…………」

 運命の相手だとかなんとか、よくそんな言葉がすぐに出てくるよなと思いながらも、初めて華谷に話しかけられた日のことが蘇る。
 もし親にピアノをやらされていなかったら、小学生の時に出場したピアノコンクールでぶっ倒れていなかったら、確かに今こうして華谷と楽器を吹いていることはなかったのかもしれない。

「だから、なーちゃんにとっての運命の相手も、俺だったら嬉しいと思うけど」
「……分かんないよ」

 少しだけ罪悪感を覚えながら、俺は小さく首を振る。
 ――だって自分の気持ちは、まだよく分からない。
 そもそも今まで音楽漬けで、恋愛とかしてこなかったし。それに周囲の女子たちはみんな華谷のことを見ているから、俺は誰かと目が合うどころか恋に落ちる瞬間すらなかったんですけど。というかそもそも俺、男なのに。

「でも……」

 はっきりと自覚していることは、ひとつだけあって。
 それは留学中の華谷から送られてきた自撮りを見た時や、後輩の女子からラブレターを預かった時に、ほのかに抱いた感情だ。

「華谷の隣に俺以外の人間が立ってたらむかつく、とは思う」
「!」
「あと、俺の知らない場所で華谷が他の人と仲良く飯食ってたとかいう話聞くのもなんかうざい。こういう感情って、お前と同じだったりするの? ならそれはそれでもういいわ。部活と勉強以外のことで悩むのとか面倒くさいし」
「…………」

 告白の返事としてはかなり投げやりだったかもしれないが、これが今の俺に言えることなのだから仕方ない。けれど視線を上げれば、華谷はあたかも感無量といった表情で口を押さえて震えていた。

「なーちゃん、意外と独占欲強め? 最高なんだけど……」
「はぁ!? 気色悪いこと言うな!」
「いいえ、喜んで。なーちゃんになら股間にチューナー投げつけられても、楽器ケースに監禁されても構わないし」
「お前、その変な例え本当どうにかしろよ……」
「ふふ、そのくらい愛してるってことなんだけどね」

 窓の端にまとめられたカーテンをふわりと広げ、華谷は俺ごと大きな布の中へと包み込む。
 あえて思い出そうとしなくても、その瞬間は一年半前の出来事と重なった。

「ありがとう、『七斗』。俺のこと、ずっと待っててくれて」
「華谷……」

 電気が落とされた空間で、窓の外から差し込む薄明かりが目の前の華谷のシルエットをぼんやりとふちどる。
 長い睫毛を伏せ、少しだけ顔を傾ける華谷。こちらへ促すような視線は、何度も見たことがあるから分かってる。これはキスの合図だ。

 咄嗟に目をつぶるよりも先に、華谷の瞳が閉じられて――
 心の準備を整える間もなく、彼の柔らかな唇が触れた。

「んっ……」

 一度触れたら、もう止まらない。
 力任せにきつく抱きしめられ、背骨がきしみそうになる。
 いつもの柔らかい物腰はどこへやら、服越しに伝わる華谷の力は野性的で、欲望的で、どこか焦燥を孕んでいるようにも感じられて。
 強い力を受け止めながら胸の奥からせり上がったのは、一年半前にキスをされた時よりもっと強い、何か。
 足元がふわりと浮かび上がってしまいそうな奇妙な感覚に、俺も華谷のブレザーの袖をぎゅっと握りしめた。

「や……はな、……んっ」

 まるでこれまで押し込めてきた感情をぶつけてくるような華谷に、俺もなんとか返そうとしたけれど。
 繰り返し重ねられる唇に、思わず鼻にかかったような声が漏れてしまう。
 本当に、キスでも何でも、こいつってなんでこんなに慣れてるんだ?

「……ん、んんっ……」

 楽器吹きのくせにブレスのタイミングが分かりかねて、次第に呼吸が苦しくなってくる。
 どんどんと力任せに華谷の胸を叩けば、ようやくその腕の中から解放してもらえた。
 後ろにひっくり返らんばかりにのけぞっていたせいで、じくじくと腰が鈍く痛む。

「お前……やり過ぎだって」
「仕方ないでしょ……好きな人にキスできて、我慢する方が無理だし」
「っ……お前、ほんとそういうとこ……!」

 唇には先ほどのキスの感触が生々しく残って、頬が燃えるように熱い。室内が暗いおかげで、真っ赤になっているであろう顔を見られないことが幸いだった。

「なーちゃん、帰ろ」
「……うん」

 音楽室の鍵がまだ返されていないことに気付いた守衛さんがそろそろ様子を見に来る気配を察し、どちらからともなく帰りの支度を始める。
 自主練用のマウスピースだけを通学鞄に入れ、俺は華谷と音楽室を後にした。

「来週からもう冬休みかー。あ、クリスマスデートの希望あったら後で教えて。なかったら俺が勝手に計画するけど」
「はぁ? なんだよ急に」
「それから、年末はラブラブおうちデートね。俺んちで鍋つつこ♡」
「おい、勝手に話を進めるな!」

 廊下を歩きながら上機嫌であれこれと計画し出す華谷に、先が見えない不安を感じる。
 ふたりでの外出も、華谷は以前から『デート』とは言っていたものの、今度こそ行く場所やすることが変わったりするのだろうか。
 ――そんなの、今はまだ、分からないけれど。

「冬休みに入っても部活はあるぞ。浮かれてないでちゃんと参加しろよ」
「もちろん。部長の言うことはちゃんと聞くって約束だからね」
「よく覚えてるな。そうだ、あと今年中に楽器倉庫の掃除もしないと……」

 年が明けたら、定期演奏会の準備が始まる。
 演奏会が終わったら、俺たちはもう三年生だ。

 時が過ぎるのはあっという間だけど、あっという間なんて言葉で、決して終わらせるつもりはない。
 だって俺はもう、ひとりぼっちの部長じゃないから。
 『残りの一年半』は、華谷とふたりで並んで歩んでいこう。

「はい、なーちゃん」
「……ん」

 校門を出てから差し出された手を、俺はそっと握り返す。
 ひんやりと静まり返った冬の夜の空気の中、繋がれた手はいつまでも温かかった。

【完】

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