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祝祭はキスのあとに。 5話

 人気のない体育館裏で、なぜか俺は名前も知らない一年の女子生徒と向き合っている。

「あの……これ、華谷先輩に渡していただけませんかっ!?」

 頬を真っ赤に紅潮させた女子が、ずい、と花柄の封筒を差し出した瞬間――ほら来た、と俺の嫌な予感は的中した。

「このご時世に手紙か……なかなか古風だな」
「すみません……私ができるのはこのくらいしかなくて……」
「華谷に直接渡せばいいのに。人づてなんて、本人に渡さない可能性だってあるだろ」
「そんなことありません! 吹奏楽部の部長で、華谷先輩から『なーちゃん』と呼ばれている吉野先輩が、そんな不義理を働く訳ありませんからっ」
「どんな理屈だよ……」

 本人に渡す勇気はないくせに、華谷に近い人間を信頼する気持ちはやけに強いようだ。
 彼女の熱意に押され、俺は厄介な物を押し付けられてしまうのだった。

 ♩ ♩ ♩

 部長に任命されてから、そして華谷がこの学校へ戻って来てから、時の速さはあっという間で。部室の壁に飾られたカレンダーは、11月の訪れを示していた。

「あれ、ラストクリスマスって結局演(や)るんだっけ」
「やりますよー! 先生も奥さんとの思い出の曲だからこれがいいっておっしゃってたじゃないですか!」
「桐生先輩ー! 先輩宛にでっかい荷物届いてますよ!?」
「それ、クリコンで使う飾り! とりあえずグランドピアノの下に置いておいてもらってもいい?」

 部室では、来月に控えたクリスマスコンサートの準備が着々と進んでいる。
 華谷が勝手な提案をしたおかげで、結局今年は去年と全く異なるプログラムを演奏することになってしまい――案の定新しい楽譜を取り寄せたり、プログラムを大きく作り直したりと部内は大わらわだった。
 同時に年末が迫っていることもあり、部長としても日々あらゆる業務をこなさなければならなかったのだけれど。

「ねー、吉野。他にやることある?」
(はぁ……どうしたもんかな)
「ちょっと! 聞いてんの!?」
「うわっ!」

 ぱしんと容赦ない力で頭をはたかれ、驚いて我に返る。
 目の前にはスコアの束を手に、不機嫌な表情でこちらを見る冴里がいた。

「いつまで楽譜と見つめ合ってるつもり? あんたそんなにジングルベル好きなの」
「いや……そりすべりの方が好きかな」
「そんなのどうでもいいから! 一時間目からぼーっとしちゃって、どうせまた華谷のこと考えてたんでしょ」
「ち……違う! しかも『また』ってなんだよ!!」

 慌てて否定するも、彼女の発言は図星だった。
 けれど冴里はこれ以上咎めることなく、ため息と共にもう一度ゆっくりと話し出した。

「生徒会の助成金申請は、あたしと芽衣で終わらせといた。他になんかやることある?」
「ああ……いや、大丈夫。俺もあとは倉庫に用あるだけだから」
「了解。んじゃ、あたしパー練戻るからね」
「分かった。作業ありがとな」

 冴里がトロンボーンパートの練習に戻って行くのを見届けてから、部室を後にする。

(……駄目だよな。この時期にこんなメンタルじゃ)

 廊下を歩きながら、手にしていた楽譜のファイルを無意識に握りしめる。
 先週末に後輩の女子生徒から渡された華谷宛ての手紙は、相変わらず楽譜の間に挟まれたままになっていた。

 自分が持っていても意味ないし、正直邪魔でしかない。
 なのに何となく、今日まで華谷に渡せずにいたのだ。

 ♩ ♩ ♩

(うわ、ここも年内に掃除しとかないとな)

 人気のない、旧校舎の外れ。
 楽器倉庫のドアを開けて、むわっと籠るような埃っぽい空気に顔をしかめる。床に積まれたハードケースを端からひとつひとつ機械的に開ける間にも、脳内には過去の出来事が蘇っていた。

 ――今まで、こんなことは何度もあった。

 華谷の連絡先を聞き出して欲しいとか、何でもいいから華谷のことを教えて欲しいとか。
 こちらからしたら迷惑ったらありゃしないし、その心情はちっとも理解できない。
 美しい旋律を奏でる楽器の腕も、好きな人も、欲しいものは努力して手に入れるものだろう。知らんけど。

「なーなとくんっ」
「ぎゃっ!?」

 不意に背後から聞こえた声に、びくりと肩を震わせる。
 背後には不気味なほどに満面の笑みを浮かべる華谷と、開け放しにされたままのドアがあった。ばくばくと鼓動を打つ胸元を押さえながら、俺は驚きで掠れた声を出す。

「は、華谷か……驚かせるなよ……」
「空き教室でパー練してたら、なーちゃんが前通ったから。追いかけない訳に行かないよね」
「真面目に練習しろ!」

 後ろ手にドアを閉め、なぜかご丁寧にガチャリと鍵まで閉める華谷。そして彼は、埃っぽい室内をゆっくりと見回した。

「楽器倉庫ってここにあったんだ」
「ああ。音楽準備室に入り切らない楽器とか、過去に使った楽譜はこっちにしまってる」
「ほんとだ。バリトンサックスもあるじゃん」

 華谷は俺の隣に腰を下ろし、楽しそうに楽器ケースを物色し始める。
 そんな彼を横目に作業を再開すれば、ほどなくして新品同様の譜面台を発掘した。代わりがあって良かった。いつも使っている譜面台の調子が悪くて困っていたのだ。

「なーちゃん、最近俺になんか隠してない?」
「!」

 不意に投げかけられた言葉に、どきりと心臓が跳ねる。
 咄嗟に隣を振り向くも、華谷の視線は年季の入ったバリトンサックスに向けられたままだ。

「……なんで分かるんだよ」
「分からない訳ないじゃん。いつもより統計的に目逸らされる回数多いし。今日の昼飯の時だって、俺が勝手になーちゃんのジュース飲んでも、ぼーっとして何も言わなかったでしょ?」
「は!? お前そんなことしてたのか!?」

 相変わらず気味の悪いことを言う華谷に、一瞬寒気が走ったけれど――人たらしに加えて観察眼の鋭い華谷のことだ。彼を相手に隠し事をする方が難しいかもしれない。

(それに……)

 誰もいない、来る気配もない楽器倉庫にふたりきり。
 これは意外にも良いタイミングなんじゃないかと、俺は心を決めた。

「……華谷。これ、お前に渡したくて」

 俺は近くに置いていた楽譜ファイルをぱらぱらとめくると、挟んでいたピンク色の封筒を差し出す。瞬間、彼の表情がぱっと華やいだ。

「え、なに。なーちゃんからのラブレター!?」
「違う! 一年の女子に、華谷に渡してって頼まれてたんだよ」
「ふーん……」

 俺からではないことが面白くなかったのか、スンッと無表情になる華谷。
 華谷は受け取った封筒を一瞥すると、流れるような所作で手紙をこちらへ戻した。

「返しといて。吉野音楽事務所NGですって」
「は!? なんで俺の名前……」

 まさか自分が受け取るわけにも行かず、互いの手のひらをぐいぐいと押し合う。第三者が見たら不審極まりない光景だ。

「俺に返されても困るって! もらうだけもらっとけよ。それだけで喜ぶ女子だっているかもしれないだろ」

 押し合いへし合いの末、やがて華谷は「仕方ないな」小さく息をつくと封筒をブレザーのポケットにしまう。
 その様子を見て、なぜかちくりと胸が痛んだ。どうした、こんな時に不整脈だろうか。

「コンサートも期末試験も控えてるのに、女の子の相手してる暇はないんだけどねぇ」
「何だよ、お前にしては真面目だな」
「そりゃあ俺だって優先順位くらいつけますよ。それに俺の最推しはなーちゃんだし?」
「冗談やめろって……」

 本当に同い年か疑いたくなるほどの大人びた表情で微笑まれ、再び鼓動が跳ねる。
 華谷は少しだけこちらへ顔を近付けると、まるでひそひそ話をするかのように、小さな声で「あのさ」と囁いた。

「もしかしてなーちゃんが最近ぼんやりしてたのって、この手紙のせい?」
「え……」
「なんで? 俺にこの手紙、渡したくなかった? 渡そうか悩んでた?」
「は!? だってそれは……お、お前が恋愛にうつつを抜かして練習に来なくなったら、ぶぶ部活に支障が出るだろ!」

 どうしていつも、この男はまるで嫌がらせのようにこちらの心情を読み解いて来るのか。
 咄嗟に誤魔化そうとするも、自分でも聞き苦しいほどに言葉が詰まった。

「でも、この部活って別に恋愛禁止じゃないよね? 他の部活の人と付き合ってる子もいるって聞いたし」
「よそはよそ! うちはうち!」

 慌てて誤魔化そうとするも、華谷が話題を変えてくれそうな気配はない。
 むしろ先刻と比べて華谷が纏う空気が明らかに変わったのを感じ、かなり嫌な予感がした。

「じゃあさ、なーちゃんは俺が返事する気ないって分かって、安心した?」
「ああ。安心したよ! この部活にいる以上、お前に乱れた生活されたら困るからな」
「素直じゃないなぁ……ま、そこも可愛いんだけど」

 一直線にこちらへ注がれる視線から逃れるように、俺は反射的に後ずさる。そんなに見つめられたら穴が空いてしまいそうだ。
 そんな俺の反応を面白がるかのように、華谷は余裕のある笑みを浮かべながらゆっくりと俺を追い詰めていった。

「おい……何だよ。なに近付いてきてんだよ」
「別に? なーちゃんが勝手に逃げてるだけじゃない?」

 這うように後退していたが、壁際に置かれたチューバの巨大なケースにごつんと背中がぶつかってしまう。

「や……めろよ、華谷。誰か来るかもしれないだろ」
「さっき鍵閉めたでしょ。ほんと、俺の部長は隙だらけだね」
「誰が俺のだ……!」

 恍惚とした表情で、獲物を見定めるようにこちらを見下ろす華谷を前に、どうしてこうなった、と冷や汗をかきながら考える。
 そうだ、自分がうっかり倉庫のドアを開け放しにしていたせいだ。

「……ねえ、なーちゃん」

 そんなことを思う間にも、俺を追い詰めた華谷の双眸が、嬉しそうに細められる。

「また、キスしよっか」
「な――」

 鼻先で囁くように紡がれた言葉に、目を見開く。
 視線の先、華谷の頭上で白く光る電球が、暗幕の隙間から差し込むスポットライトの光と重なった。

 華谷は、キスのことを覚えていた。
 ――というか、あれは夢なんかじゃない。実際に起きた現実だったんだ。

『ありがとう、七斗』
『俺と一緒に、ここまで来てくれて』

 あの時、中学最後のステージが終わった後で――
 俺は、華谷にキスされた。
 そして華谷は、俺の前から姿を消した。

 あの時のキスの意味について、これまで何度も何度も考えた。
 一音入魂の演奏後、客席からの拍手喝采を受けて気持ちが昂るのは、実際よくあることで。
 華谷の行動も、その場の勢いでギターを叩き壊したり、観客席に飛び込むロックシンガーのようなものだと自分なりに解釈していた。……というか、そう思いたかった。

 そして、このままじゃ俺は、また華谷にキスされる。
 突如として訪れた妙な空気を何とかしたくて、俺は必死に頭を巡らせた。

「お前さ、おかしいだろ。なんでお前はことあるごとにキスしようとするんだよ」
「海外では普通でしょ。挨拶代わりの国だってあるよ」
「この国は違う! と言うか――」

 小さく息を呑み、華谷の余裕ありげな表情をぐっと見上げる。

「お前のそれは、挨拶だったのか……?」
「……確かめてみる?」

 低い声で楽しげに笑ったかと思えば、華谷の長い指先が、そっと俺の顎をすくう。

「や……」

 ドッ、と、全身の体温が上がる感覚。
 金縛りのように身動きができずにいる俺の鼻先に、華谷の端正な顔が近付いて――

「やめろ!!」

 窮鼠猫を噛むとはこのこと、両腕にありったけの力を込めて、華谷を突き飛ばす。ふらりと華谷がバランスを崩した隙に、俺は肩で息をしながら立ち上がった。 

「華谷響……人の人生狂わせといて、よくそんな真似できるよな」
「なーちゃん……?」
「もう俺は、お前に振り回されるだけの存在じゃない。お前が知ってる俺じゃないんだ」

 心の中に黒く沸き立つ罪悪感を打ち消すように、俺は必死に不快な記憶だけを引きずり出す。

 体育館でいつまで待っても、華谷が現れなかった入学式。
 孤独な想いを抱えたまま、独りぼっちで入った吹奏楽部。
 スタメンから外された一年生のコンクール。その後トップ奏者に選ばれたものの、ダメ金だった今年のコンクール。

 俺は悪くない。悪いのは、俺を置いて行った華谷だ。
 だからと言って、『中学生の頃から変わらないなーちゃん』だと思われたら困る。

「だって……この一年半、俺はお前なしでもやって来れたんだからな」

 友人に向かって醜い言葉をぶつける俺は、さもひどい顔をしていたことだろう。
 俺は何も持たず、逃げるように倉庫を後にした。

 ♩ ♩ ♩

 心臓が痛い。鼓動の速さをテンポにしたら、180くらいある。速すぎる。これじゃ一曲吹き終わる前に酸欠になってしまう。

 楽器倉庫を飛び出し、音楽室に向かって走って、走って――
 息切れしてスピードを落としたところに、通りがかった女子トイレから大きい声が聞こえてきた。

「ねーねー、知ってる? 華谷くんの噂」
(……華谷?)

 あまりにタイムリーな名前に、思わずぴたりと足が止まる。
 声の主は分からない。いつもクラスで華谷を取り巻いている女子たちだろうか。

「華谷くんがアメリカ行ったのって、吉野くんのせいなんだって」
(……え?)

 華谷どころか自分の名前までもが登場して、思わず小さく息を呑む。今、俺のせいって言ったか?
 外で当人が聞いていることに気付くはずもなく、女子はトイレの中で賑やかに話を続けた。

「進学先に吉野くんがいたから、華谷くん、一年から入学しなかったらしいよ」
「ええ!? 何それ。吉野くんのこと避けたってこと?」
「なのかな。詳しいところはよく分かんない。あのふたりって中学も一緒でしょ? 吉野くんってなんか厳しそうだし、一緒に楽器やるの嫌だったんじゃない?」
「えー、そんなんで途中入学したとかかわいそー。そんなに楽器だけに打ち込みたいなら周りなんて巻き込まずに、吉野くんが留学すれば良かったのにね」
「…………」

 鋭利な言葉が容赦なく心を刺し、さっきまで熱のように浮かされていた全身の温度が急激に下がって行く。

「なんだよ、それ……」

 思わず唇からこぼれた声が、小さく震える。
 華谷本人が事の真相をこれまで一度も教えてくれなかったのは、まさかそんな理由だったからなのだろうか。

 このまま女子たちと鉢合わせてさらに気まずくなる訳にも行かず、俺は思い通りに動かない足取りでふらふらと音楽室へ戻る。

 その道のりは、まるで終止線が見えない暗闇の中へ向かうように思えた。


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