見出し画像

できないことの素晴らしさ

生きる意味って何?
やまゆり園の事件について考えたり、意思疎通が難しい人との出会いを元に、障がい者にはどんな価値があるのか…。そして自分はこれから先どうやって生きていこうかって考えてる時に、自分の生きる意味・価値はなんなのか…。って、思って悩んでフリーズして、そんな問いがぐるぐるしてた。

そもそも自分は、社会とか誰かの役に立たなければ生きている価値はないって考えていたりすることに気が付いた。だから自分自身にも、そしてお金を稼げなかったり寝たきりのような人に対して、どうして生きてるのだろう?っていう疑問が出てきた。

それに対して、藤本さんは言った。

そもそも価値っていうのは他者からはかることはできないよね。他者からの評価は簡単に揺らぐし、当てにならない。でも今の社会はそれがまかり通ってしまっている。

自分は自分の価値を他者から得ようとしながら生きてきたから、自分で自分の価値を見いだすことは苦手だな…って思った。

そして、自分自身のことだけでなく、障がい者について

社会の中の余白なのでは?

と言っていた。

余白…?

考えてみたことがなかったからよくわからなかった。

藤本さんがそう考えたきっかけにあるのは、おじいさんが入院したときの経験から。何もできなくて、物を渡しただけで「ありがとう」と言われたらしい。そこで、

「ありがとう」という言葉が発せられるのは、できなさに対して誰かが何かを差し出したから。できないからこそ人に助けさせることができる。〈できること〉は〈できなさ〉に支えられている。できないものが残っていることこそ価値だ。

って思ったみたい。
自分は、できないということに対してマイナスなイメージしか持ってないし、怖いとも恥ずかしいとも思っている。それが価値…?

そして、またこのようにも言っていた。

障がいのある人たちを囲んで話しをしたり、何を考えているのか、どうしたら表情が変わるのか、自分たちが試行錯誤することに意味があるのでは?その人を「存在する余白」として、〈人が集まり〉、〈コミュニケーションしてできることを探す〉という【つなぎ目】になっているのでは?

なるほどなぁ。

今まで考えてこなかったのもあるから余計にそう思うのかもしれないけど、思いつかないような考え方や見方をぽろぽろ知ることができた。

また1つ世界が広がったな。

やまゆり園の事件も、生きている意味はあるのか、という問いがあって、そういう問いを持たされている社会があるとことが表されている。

自殺とかもそう。本当は生きていくことができるのに、そうじゃないと思わせる社会がある。

生きる意味ってなんだろう、って考えると同時に、自分にも優しく、みんなにもそれでいいんだよって認められるような考え方を身につけていきたいな…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?