報徳の考え方と現代―第28回全国報徳サミット御殿場市大会 基調講演―(『報徳』2024年2月号巻頭言より)

 報徳の考え方で現代を見るとどうなるのか。報徳思想が今日の諸問題を解いていく上で、どのような示唆を与え、実践の指針になりうるのか、そんなお話ができたらと思います。

二宮尊徳・渋沢栄一・栗山英樹

 江戸時代に荒廃した農村を立て直した二宮尊徳の思想が、今日なお、私たちに多くの指針を与えているのは何故でしょうか。それは六〇〇の村々を興したという、実践によって試され済みの思想である、ということが大変大きいと思います。
 その威力を一番よく知っていたのが渋沢栄一でした。二〇二四年の七月から一万円札が渋沢栄一になります。
 渋沢は、幕末維新の動乱とその後の日本の近代化の激動を身をもって生き抜き、新しい社会と国家の形成のために奮闘しました。彼の語ったことを集めたのが『論語と算盤』ですが、これは尊徳の「道徳と経済」の関係を言い換えたものです。渋沢は、尊徳と同じく、五〇〇の会社を興し、六〇〇の社会福祉事業を展開しました。
 尊徳は「経済のない道徳は労多くして功少なし、道徳のない経済は永遠の道保ち難し」と言っています。経済のない道徳は寝言で、道徳の無い経済は犯罪だとも言い換えられていますが、渋沢これを受けて、「道徳」と「経済」の関係を豊かに追求し、両者のはざまに、立志、企業、持続、成功、義侠、無私、忍耐など、さまざまモメントを位置づけ、経営の奥義を語っています。
 尊徳の思想は「富国安民」です。しかし日本の近代国家は、とりわけ日露戦争以降、「富国強兵」の政策をとり、報徳思想をそこに活用しました。捻じ曲げた活用で、最後にあんな悲惨な戦争の結末を招くのですが、そういう動きとは正反対の流れを、尊徳の考え方を活用して創ろうとしたのが渋沢栄一でした。
 渋沢は、一九三一年・昭和六年に亡くなっています。丁度、満州事変の年です。それを拒否するかのように亡くなっています。日本資本主義の発展において、満州事変に始まるその後の中国や東南アジアへの侵略を渋沢は決して是としなかったでしょう。
 道徳のない経済は永続しない、人々をも社会をも堕落させていき、犯罪につながる。満蒙は日本の生命線といって、満州事変以後、植民地獲得に乗り出した資本主義の在り方などは、まさに犯罪の例でしょう。道徳と経済の関係を無視するととんでもないことになる。このことを渋沢は熟知しており、論語と算盤の良き関係、両者の生産的組み合わせに日本未来を見て、実践しました。その考え方の精華が『論語と算盤』です。
 たまたま昨日、WBCで日本の野球を世界一に導いた栗山英樹さんが大日本報徳社に寄ってくださいました。一時間ほど対談させていただきました。月刊誌『報徳』の新年号に載せたいと思っていますが、栗山さんは日本ハム監督時代、選手たちに、何と、渋沢栄一の『論語と算盤』を読んでもらっていたといいます。
 論語と算盤、道徳と経済の話が、どうして野球の選手と関係があるのか。栗山さんは、誠実な道徳的振る舞いと、自分の利益だけでなく他の利益も考える算盤勘定の一致を主張する渋沢の経営論に、選手の育成、組織作りにつながる、人間教育の精髄を見ておられました。
 『論語と算盤』を手にして選手たちは、自分との接点をどこに見つけたらよいのか戸惑うそうですが、「とにかく読んでほしい」、「何でも聞いてほしい」と言って、選手たちに読んで心を耕すことを求めています。大谷翔平に渡して、しばらくして聞いたところ「難しかったっす!」と言ったそうですが、後に目標達成シートに『論語と算盤』を書き加えていたとのこと。
 『論語と算盤』を活用した日本ハムでの実践記録は、『育てる力―栗山英樹『論語と算盤―』の教え―』という本になっています。
 技術面も大切ですが、いかに心を耕していくかは大変重要です。尊徳は、「新田開発」を奨励しましたが、それより大切にしたのは「心田開発」で、「一人の心の荒蕪を開けば、荒れ地は何万町歩あっても怖くはない」といっています。
 このような江戸時代の尊徳の思想が、明治、大正、昭和の時代に渋沢栄一に受け継がれ、そして現在、平成、令和の時代に栗山英樹に受け継がれている。報徳の考え方の強い生命力を感じます。
 栗山さんにはほかにも、『覚悟―理論派新人監督はなぜ理論を捨てたのかー』、『栗山魂―夢を正夢に―』、『栗山ノート』、『栗山ノート2』などの著作があり、これらの本は、野球という新田において、「新田の開発」と「心田の開発」の二つの融合を記録する、大いなるドキュメントとして読むことができます。

「万象具徳」「以徳報徳」

 尊徳の思想は、このように実践的な挑発力を持っています。「道徳と経済」「新田と心田」「天道と人道」といった、こうした二項対立から中点を求める思考が提起されていますが、尊徳の考え方の基盤は、「万象具徳」「以徳報徳」「積小為大」「一円融合」と四文字熟語で言い表せるものです。
 「万象具徳」、あらゆるものに徳が備わっている、そしてその徳に対して「以徳報徳」、徳で以て報いようというのが報徳思想の根本思想です。
 あらゆるものに徳が備わっているという考え方は、神道から来ています。八百万の神々から出たもので、キリスト教やイスラム教のような一神教からは出てこない発想です。一神教は自分以外の正しさを認めませんから、弾圧、排除を生みます。八百万の神々、万象具徳の世界は、価値の多様性を前提としていますから、極めて民主主義的な考え方で、尊徳はそれに拠っています。
 では徳とは何なのでしょうか。まずは良さと言っていいでしょう。
  

  どんなものにも良さがある
  どんな人にも良さがある
  良さがそれぞれみな違う
  良さが一杯隠れてる
  どこか取柄があるものだ
  ものの取柄を引き出そう
  人の取柄を育てよう
  自分の取柄をささげよう
  取柄と取柄が結ばれて
  この世は楽しい不壊世界

 佐々井典比古さんの思想詩です。徳というのは、人や物の良さ、取柄、長所が基礎になります。しかし頭脳明晰で、知識をたくさん持っていただけでは、徳があるとはいえません。良さ、取柄は必要条件であっても十分条件ではないでしょう。
 徳とは一体何なのか。徳を身に着けるにはどうすればよいのか。学ぶこと、実践すること、体験することの中から、自然と身に醸し出される人生のエキスのようなものが徳かなあと思ったりします。昔は修身という科目がありました。身を修めると書きますが、大切な言葉だと思います。学びつつ、実践しつつ、身を修めていく、これが徳に近づいていく道なのだと思います。
 いずれにせよ徳を身に着ける。この課題は大変重要で、しかし最も容易ではない課題でもあり、私たちにとっての永遠の課題を尊徳は提起しています。

「積小為大」

 積小為大は、尊徳の少年時代の体験から生まれた考え方で、今、熱演された劇にも菜種の話がありました。少しの種を蒔いたら八升の菜種になったので灯油に変えた、捨て苗を植えておいたら一俵のお米が取れた、等々の体験から「積小為大」の考え方が生まれるのですが、この考え方の一番大切なところは、小さいものを積み重ねると大きくなる、一プラス一が二になり、二プラス三が五なる、一日に一円ずつ貯めれば、一年たったら三六五円になるという量の面だけではなくて、量の蓄積が新しい質を生むというところだと思います。
 歌人の佐々木幸綱さんが言っておられましたが、和歌に熟達するには、まず五〇〇首くらい和歌を苦心して作ってみる。量をまず重ねる。そうすると和歌の仕組みがわかってくる。一〇〇〇首作ると次第に思ったことがスムーズに和歌になるようになる。それ以上作っていくと、思いがけない名歌が生まれる。そう言っておられましたが、これこそ積小為大です。
 出来なかったことが、練習を重ねて出来るようになることを私たちは体験しています。量の蓄積が新しい質を生み出していく。野球の大谷翔平選手の活躍は素晴らしいですが、出身の花巻東高は報徳が校是になっています。大谷選手の活躍をやはり積小為大を日々実践しているのだなあと思って見ています。
 積小為大は、人間の能力に深い信頼を置いた考え方で、私たちの力を無限に発展させる哲学というふうに言えるのではないでしょうか。

「一円融合」

 「一円融合」ですが、これは桜町仕法がうまく行かず、成田山新勝寺に参籠して不動明王と二十一日間対座して得た境地で、その心境を「打つ心あれば 打たるる世の中よ 打たる心にに打たることなし」と表現していますが、事を荒立てず、仲良く調和を目指しましょうというように聞こえますが、そんなやわな思想ではありません。
 いろいろに解釈できますが、私は対立していることを対立のままに捨て置かずに、必ず円の中に入れて考えよう、というように捉えています。円の中に入れて考えても、対立は直ぐに一致点が見いだせないでしょう。早くに解決できる場合もありますが、二年も三年も、十年もかかる場合もあるかもしれません。しかし円の中に入れて考えれば、敵対的になることはありません。円の中で熟議を重ね、知恵を絞って一致点が見出せたならば、これこそ素晴らしい創意工夫です。それが次の新しい発展の基盤になっていきます。
 この考え方は、私たちの日々の活動を考える上でも大きな意味を持ちますが、日本や世界の問題を考える上でも、大変重要な観点を示していると思います。
 ロシア・ウクライナ戦争は、侵略したロシアが悪いと誰しも思うでしょう。しかし「一円融合」の観点から見ると、様々な問題が見えてきます。
 今世紀初頭、アメリカとロシアは蜜月でした。しかし二〇〇八年、アメリカがウクライナとジョージアのNATO加盟を提案したことが転機になります。そんなことをしたらとんでもないことになると、独仏が反対して棚上げになりますが、国境を接するバルト三国のNATO加盟まで容認していたプーチンに、不信と怒りを呼び起こします。これが契機になって、ジョージア支配、クリミア領有に至ります。プーチンがこうなったのは、NATOがロシアを追い込んだ結果でもあるのです。
 一九八九年にベルリンの壁が崩れ、東西冷戦が終わり、北大西洋条約機構とワルシャワ条約機構は二割ずつの削減を決めました。その途上で東欧社会主義国がなくなり、ワルシャワ条約機構も無くなりました。北大西洋条約機構NATOも無くなっていはずでしたが、そうなりませんでした。アメリカのベイカー国務長官も、ドイツのコール首相も、NATOは一センチも東にいってはいけない、と言ってはいたのですが、そのまま存続し、加盟国を十六か国から三十か国に増やし、地政学上、絶対に中立にしておかないといといけない、ウクライナ、ジョージアのNATO加盟まで持ち出したのです。それがウクライナ・ロシア戦争を呼び起こした原因です。軍事同盟のもつ深刻な問題がここにあります。

ドイツのメルケル首相と一円融合

 この中で、一円融合を実践した人がいます。ドイツのメルケル首相です。彼女はロシアとの友好関係に一貫して意を尽くしました。石油のパイプラインもありますが、ロシアに対しては、第二次世界大戦でドイツはロシアを侵略して二〇〇〇万人の人たちを殺したという悲惨な歴史があります。それだけにロシアとの関係はあらゆることを考え慎重に運びました。意見が違っても円の中に入れて、お互いに共通点を見出す努力を続けました。
 メルケル退陣と共に、戦争が始まりました。メルケルのプーチンへの甘さがいわれますが、それは違うでしょう。ウクライナとロシアは親せきや友人も多く、国民は緊密な関係にありました。しかしいったん戦争になれば、憎しみの連鎖しか生みません。今後、何百年も両国民の友好関係はないでしょう。戦争の終わりも見えません。どちらも壊滅寸前まで行かないと決着はつかない。いったん戦争になればそこまで行ってしまいます。
 メルケル政権が健在だったならば、そして戦争にならなければ、数十万の戦死者は今、みんな生きています。一千万近い他国への亡命者はないでしょう。ウクライナとロシアの間の国民の絆は続いたでしょう。
 どんな場合も円に入れて考える。決して敵をつくらない。最大の安全保障は何か。敵を作らないことです。「一円融合」の尊徳の教えは、まさに現代においてこそ実践さるべき生きた思想であることがわかります。

軍産学融合体

 この戦争で、武器だけ供給しているアメリカは、好況だと言われています。新聞でも最近、軍産学融合体の問題が指摘され始めました。
 六十年前、私の学生時代、アメリカのアイゼンハウアー大統領がケネディ大統領に変わる時代でした。その時の退任演説でアイゼンハウアーはアメリカに軍産学融合体が出来つつあると警告し、その演説に大きな衝撃を受けた体験を持っています。
 四点指摘していました。学問が軍事に従属して歪められつつある、学者は自由な知的探求心に沿って研究するのに、政府の委託による研究が多く位置を占めている、軍事科学専門のエリートたちの発言が強化されいる、政策実行が秘密裏に行われるが挙げられていました。
 アイゼンハウアーは、この融合体が一度出来ると、国家は武器を買い上げざるを得なくなり、武器消費をし続けることになること、どこかで戦争が起こっていないと国が持たなくなること、この構造への大きな懸念でした。
 アイゼンハワーは、第二次世界大戦ではナチス掃討の連合国軍総司令官で、戦後はアメリカの陸軍参謀総長であり、北大西洋条約機構NATOの最高司令官です。大統領の時にはダレス国務長官と組んでソ連封じ込めの強面政策を行った人なのですが、何とそのアイゼンハワーがこういう演説をするのに驚愕しました。
 アメリカの民主主義の凄さにいたく感銘したのですが、しかし振り返ってみますと、アイゼンハウアーの懸念は、
当たったというべきでしょう。やがてベトナム戦争を始めます。それ以後アメリカは、湾岸戦争、イラク戦争、アフガン戦争、そしてウクライナと、十五年
ごとに戦争している国になりました。戦争しないと持たない国になっている。台湾もその延長上にあるのでしょうか。
 軍産学融合体は各国にできつつあります。日本にも武器輸出がいわれているように、国防に名を借りた好戦的な蠢きが始っています。

EUの一円融合と東アジア共同体

 ドイツとフランスは、二十世紀に二度、第一次世界大戦と第二次世界大戦を起こしました。その教訓から戦後ヨーロッパ共同体が生まれました。独仏が、これから戦争をすると考える人は誰もいないでしょう。
 ですから私たちの目指すべきは、東アジア共同体でしょう。中国との間に尖閣列島問題がありますが、これは田中周恩来会談で棚上げにして、それ以後四十年間ずっと友好関係が続いていました。当時石原都知事が楔を打ち込み、野田首相がそれに乗って、日本が一方的に国有化宣言したから発生した問題です。面子をつぶされたのは中国の方なのですが、そういうように考える日本人は極少数です。公平に物事を見る一円融合の観点に立たない限り、理屈に合った解決は探れないのです。
 そもそも、尖閣列島にしても竹島や北方四島にしても、領有で争う意味があるのでしょうか。日本の農村には昔から入会地という、共同で草や薪などを取る共有地がありました。それと同じように問題の島々は、国際入会地にして資源配分を協議すればすむことです。
 ハリネズミ国家になっている北朝鮮も、もとはといえば「イラク、リビア、北朝鮮を潰す」と宣言したアメリカにも責任があります。ICBMを開発してアメリカと対等になったからトランプと交渉したわけで、北朝鮮の念頭に日本はないのですが、米軍基地がありますから、戦争になれば沖縄、佐世保、岩国、横田、横須賀、三沢には北朝鮮のミサイルが飛んで来るでしょう。
 そして台湾問題ですが、中国の国内問題であるということは押さえておく必要があると思います。台湾有事とアメリカが判断した場合、台湾にアメリカ軍の基地はありませんから、沖縄が中国との戦争の最前線基地になります。安全保障条約によって日本は本当に守られているのでしょうか。アメリカの先兵となって中国と戦うことになるのではないか。安全保障条約は日本国民にとっては安全破壊条約になってしまうのではないか。ここでも軍事同盟の深刻な問題が浮かび上がります。
 一円融合の観点から物事を見ると、このような問題がさまざまに浮かび上って、その因果関係が見えてきます。

人類を危機に追いやる四天王

 今年のNHKの大河ドラマは『どうする家康』です。家康をもり立てた四天王は、「酒井・榊原・井伊・本多」と言われていて、中学校の時に戦国名将伝を読みふけりましたので、馴染みの人たちで、どう演じられるのか面白く見ているのですが、本多忠勝と聞くともう直ちに先頭に立って戦う小牧長久手の大奮戦などが浮かんできます。
 あんなに先頭に立って戦ったのに一度も傷を負ったことがない人で、晩年隠居してから小刀でうっかり手を切ったのが初めての体の傷だったいうエピソードとか、娘のいねは真田幸村のお兄さんの信之のところにお嫁に行っている。ところが真田幸村と父の昌幸は豊臣方に付く。信之は板挟みになって大変な苦労をしたと思うのですが、居城のあった松代を訪ねて知ったのですが、真田信之は何と九十歳まで生きているのですね。大変なストレスの中にいたのに長生きだったのにびっくりし、いねは後に小松殿とよばれていますが、彼女の支えが大きかったのだろうと思ったり、こんな類のエピソード満載の酒井忠次・榊原康政・井伊直政・本多忠勝なのですが、見ていて思いついたのは、家康を支えた四天王は凄いが、人類を滅ぼす四天王もあるなあということです。
 四天王は人を指しますが、私が思った四天王は人ではなくて事柄です。第一は、米・中・ロなどの大国の覇権主義です。二つ目は、NATOなどの軍事同盟。そして三つ目が各国にできつつある今申し上げた軍産学融合体。そして四つ目が格差を生む資本の論理。これらに私たちは今後どのように対峙していくか。人類はそういう課題に直面していると思います。私達はここに潜む深刻な問題に、常にしっかり目を凝らして見ていく必要があるのではないでしょうか。
 先ほど皆さんと共に斉唱した『報徳訓』の一〇八文字の中に「田畑山林は人民の勤耕にあり」とあります。現在、この田畑山林が「大国の覇権主義、軍事同盟、軍産学融合体、資本の跋扈」によって荒らされている。これを「人民の勤耕」によっていかに是正していくか。そういう構図にあると思います。
 日本は個別的自衛権から集団的自衛権に移行しましたが、集団的自衛権は大変曲者で、アフガニスタンで国の仕事として武装解除を担当した東京外国語大学の伊勢崎賢治さんの話ですが、日本も空中給油などでアフガニスタンの戦争に参加しているのですね。アメリカは負けて撤退したのですが、国際法上は日本も敗戦国になっているといいます。しかし、そんな風に思っている日本人は誰もいない。ここに集団的自衛権の恐ろしさがあると伊勢崎さんは指摘しています。
 更に調べてみますと、ドイツの兵士が何と五十四名も亡くなっているのですね。アメリカはアフガニスタンに介入し荒廃させただけで撤退した、こんな馬鹿げた戦争で、NATOの集団的自衛権のもとに出動したドイツの兵士が五十四名も戦死している。一体何の為に死んだのか。
 ここ御殿場の地は、自衛隊の皆さんがおられます。私たちを守る自衛隊を、私たちもまた守らなければなりません。やはり私たちは専守防衛に徹すべきでしょう。個別的自衛権に徹して、集団的自衛権はやめる。そして説得力豊かな自立した自主独立外交と通商を目指す。これが「人民の勤耕」に生きる私たちの取るべき道なのだと思います。

「至誠」

 人類を救ういろいろな教えがあります。キリスト教は「愛」をいいます。 仏教は「慈悲」でしょう。そして儒教は「仁」をいいます。報徳は何なのか。「至誠」です。
 尊徳は、「天・地の経文を読み解く」ことの大切さをよく言います。自然・社会・人間の真理と真実にいかに誠の心でもって迫るか。それが尊徳の「至誠」です。
  

音もなく香もなく常に天つちは 
書かざる経を繰り返しつつ
天津日の恵み積みおく無尽蔵 
鍬で掘り出せ、鎌で刈り取れ

 天地人の客観的真理を誠の心によってしっかり映しとって我が物にする。その道に従うところに、私たちの大きな発展がある。尊徳が私たちに求めるのは科学的精神なのですね。「誠」というと新選組の旗などを思い出しますが、徳川幕府への忠誠とか義理人情や道徳的説教話では全くありません。
 自然と社会と人間の真善美をしっかり我が物にするのが尊徳の誠の道、至誠なのです。『中庸』には「誠は天の道なり、これを誠にするのは人の道なり」とあります。
 気候変動が問題になっていますが、人間の欲望によって人道が歪められ、歪んだ人道が天道まで歪めている。やっぱり現在、自然・人間・社会において、政治・経済・文化・国際関係のあらゆる面において、根本から考え直さないと進んでいけない時代に入っています。報徳思想は、私たちにこの根源的な思考を強く促します。

明治・大正時代の地方改良運動、昭和初期の農山漁村更生運動

 以上、報徳の観点から現実を見るとどう見えるか、お話しました。続いて、この尊徳の思想が、明治・大正・昭和とどのように展開したか、少し触れておきます。
 最初に渋沢栄一の話をしましたが、報徳思想は財界人に大きな影響を与えました。豊田佐吉、御木本幸吉、松下幸之助、土光敏夫、稲盛和夫などがいますが、現実との厳しい対峙を求められる財界人に、客観に徹した科学的思考に倫理道徳を合理的に位置づけんとする尊徳の考え方は、経済活動のあるべき姿として、大きな魅力と活力を与えるものだったのだと思います。
 報徳を運動の面で見てみますと、江戸末期に尊徳に学んだ安居院義道庄七は、遠州地方に報徳を広めました。そこから尊徳の四大弟子のひとりになる岡田良一郎が出ます。尊徳から「遠州の小僧」と可愛がられ、帰郷して掛川を中心として報徳社の運動を展開しました。
 明治維新になって、岡田良一郎は父の佐平治と共に、遠州の農村再生に奮闘する各地の報徳社を「遠州遠江国報徳社」として結集します。当時の農村に待たれていた報徳の考え方は、やがて全国に広がっていきます。明治の末に「大日本報徳社」になり、掛川が報徳社運動の中心になります。
 日露戦争に日本は勝ったのですが、国の財政は破産寸前でした。その立て直しが喫緊の課題で、内務省は、地域の立て直しに実績を上げている報徳社に着目します。丁度、報徳社の運動が全国に広がり、「中央報徳会」が出来た時期と重なり、報徳社の活動は、政府の推し進める「地方改良運動」の推進者となります。
 耕地整理や農業技術の革新、青年団や婦人会の組織化など、農家の立て直し、村の財政の健全化、税収の確立など、報徳社の活動は、明治の末から大正時代にかけて、農家の立て直しと農村の近代化を進めるダイナモとなっていきます。
 昭和に入ると、世界的な大恐慌が起きます。東北地方では娘の身売りなどの悲惨が起こった時代、この状況を打破する「農山漁村経済更生運動」も報徳社が主導し、模範村が次々に生まれました。
 少年二宮金次郎の像が立てられ始めたのが、丁度、この昭和の初めです。しかもこれは文部省や内務省の指示によるものではなく、すべて地域住民の自発的意思によるものです。子供たちはよく学んで欲しい、勤勉であって欲しいという親たちや地域の人たちが願い、それがあのような金次郎像になったのです。少年像は、小便小僧はあるかもしれませんが、世界中を探してもないのではないでしょうか。
 このように報徳社は、地域の復興、日本再生に奮闘したのですが、国家は国民を太平洋戦争へと引き込んでいきます。「富国安民」の報徳思想は、「天皇の御真影・教育勅語・二宮金次郎像」の三点セットとなって、「欲しがりません、勝つまでは」と、戦争遂行のシンボルにさせられてしまいました。
 戦後になって進駐軍は、そういう事実を知った上で、掛川の大日本報徳社に乗り込んで来ました。五代社長の河井弥八は、後に参議院議長になる方ですが、報徳の考え方を諄々と説きます。新聞課長のインボーデンは、大変感銘を受け、「二宮尊徳は、アメリカのワシントンやリンカーンに指すべき民主主義者だ。世界最初の信用組合の創設者でもある。報徳は日本の近代化と民主化に不可欠」と語り、大日本帝国とか、大日本帝国憲法とか大日本に関わるものは全部廃止していったのに、報徳社だけは、大日本報徳社とそのまま使ってもよいということになりました。

一九七〇年代から始まる国民の意識の変容

 金次郎像が自発的に立てられることからもわかるように、国民の意識の中には、二宮金次郎的な勤勉と学びの精神は、深く根付いていたといえます。ですから、戦後復興も高度経済成長も、これを支えたのは、戦前から連綿と続いていた二宮金次郎的な精神だったと思います。
 しかし、高度経済成長が終わった一九七〇年代以降、日本人の意識、価値観は大きく変わっていきます。「勤・倹・譲」から「消費は美徳」への変化です。
 貧しかっただけに、経済的に豊かになったことは素晴らしいことでした。高度経済成長は、若者を都会に呼び寄せます。向都離村ですね。みんな都会に出ていき、そして自由恋愛によって結婚し、ニューファミリーをつくります。自由な個人が自由な判断によって人生を決めるという、まさに戦後民主主義が花開いた時期でした。
 これは素晴らしい進歩なのですが、しかしその反面、古いものや共同体的な在り方は封建的だと批判され、核家族ですから、お父さんやお母さん、おじいさんやおばあさんの世代の生活文化、知恵や伝統が継承されないままになる問題が出てきました。
 一億総中流に向かう中で、しかし、私事にとどまらないで公事にも奮闘する大らかな市民精神が発展していくのかと思いきや、豊かさと便利さの中で、ちんまりとまとまった私生活中心主義の小市民的なメンタリティーが醸成されていきました。
 自己満足的な消費社会の価値観を超えた、確固とした人生や社会への見方、考え方を形成していくのではなく、不確かな内面をもったまま、個人主義から利己主義へ、そして更に人と人との結びつきが希薄になって、孤立化、密室化という事態がうまれてきています。
 一九七〇年代以降、今までに見られなかった問題が起こります。七十年代は校内暴力、八十年代はいじめや生徒の自殺、九十年代は不登校、学級崩壊といった問題が噴出します。これまでの日本にはなかったことです。こうして二十一世紀を迎えます。

新自由主義から新国家主義へ

 二十世紀の末、一九八〇年代のレーガノミックス、サッチャー主義、中曽根行革に象徴される新自由主義は、二十一世紀に入り、市場原理主義の形で急速に広がります。
 競争的な環境が称揚されました。成果主義、能力主義、数値主義が力を振るい始めます。経済合理性の観点から終身雇用・年功序列の日本型雇用はつぶされていきます。かわって派遣労働による長時間、過密、低賃金の不安定労働が増え、定職が得にくくなります。今や、六,〇〇〇万人の働く人々の内の二,〇〇〇万人が派遣労働になっていると言われます。格差社会の到来です。
 次いで国家中心主義が現れます。国会の議論は軽視され、閣議決定が優先されます。社会的な合意形成よりも、政府による国家意志の貫徹です。重要な問題が徹底的に議論されることなく、数の力で集団的自衛権、安保関連法、秘密保護法、共謀罪法などが通っていきます。内閣人事局への権力集中は官僚統制の強化となり、忖度政治がはびこり始めました。

国家と社会

 これまで文学の勉強をしていたこともあって、国家のことを正面から考えたことはありませんでした。しかしこのように国家が強く出てくると、国家について考えざるをえません。
 思い出したのは、ドイツの哲学者ヘーゲルの「政治的国家と市民社会の分裂は近代の特徴」という言葉です。その意味するところは、政治的国家と市民社会、つまり国家と社会は、二元的に分かれているのが近代社会の特質である。近代社会と名乗る限り、国家と社会は分かれていないと健全ではないということです。
 そういわれてみればその通りです。日本は戦前、国家と社会が一致していました。国家の政策に反対するものは治安維持法によって弾圧されました。社会は多元的です。いろいろな考え方があり、階層があり、階級があり、戦争に反対する人たちもいました。しかし国家に反対する者は、容赦なく弾圧、投獄しました。こうして一億一心、戦争に突入し、日本は破滅寸前までいきました。
 私の勉強したドイツは、西ドイツと東ドイツに分かれていました。東ドイツは社会主義国家で、党と国家の一致ということを言いました。党は単なる社会の一勢力でしょう。それが国家と一致する。つまり社会と国家の一致です。
 結果はどうなったか。中央指令体制の下で、下からの民主主義の意見はクリーンアウトされ、しなやかで多様な修正が難しくなり、科学技術革命にも乗り遅れて東ドイツは滅亡しました。同じ体制の本家本元のソ連も崩壊しました。
 この二つの例からも判るように、国家と社会は、裁然と分かれ、拮抗関係にないとその社会は健全ではないのです。
 現在、国家中心の体制を保障しているのは小選挙区制でしょうか。上位一人しか当選できませんから死票が多くなり、今の社会の支配的な人たちの当選確率が多くなるのは当然です。しかも候補者は政党中枢が握っています。
 中選挙区だったなら、志のある人たち自由に名乗り出て、同じ政党でも、二人、三人当選できます。社会が生き生きと機能し、戦後の復興発展と高度経済成長を促したのは、この百家争鳴の中選挙区制でした。
 今、政党中枢が決める候補者は、無難な高学歴の官僚経験者、二世・三世議員、そしてタレントで、みんな飼いならされたような人たちばかりです。しかも三割に満たない得票で、七割の議席が占められます。
 政治家は、大胆に問題提起し、議論を巻き起こし、研究者たちも巻き込んで切実な国民の関心に向かって答えていくのが任務でしょう。資本主義の行き詰まりをどう克服するのか。国の安全保障をどうするか。進んでいくインフレに国民をどうまもるのか。財政赤字をふやしたままで次の世代の未来は守れるのか、等々、喧々諤々、切磋琢磨の議論があっていいはずです。全くありません。
 国民が戦争を起こすことはありませんが、国家は戦争を起こします。そこには敵基地攻撃などという人も入っています。やはり社会は、しっかり国家を監視し、規制する必要があるのではないでしょうか。
 この国家を規制する社会の精神が、市民精神です。

分度の思想と市民精神

 市民精神は、尊徳の分度の考え方と微妙に絡んでいると思います。分度の「分」は天道に属するもの、「度」は人道に属するものと言われますが、分度を定めて勤勉に働くと、必ず余剰が生まれます。その三分の一は自分のため、三分の一は自分の未来のため、そして三分の一は社会のために推譲します。報徳仕法は、心田の開発・分度の確立・推譲の実践によって成り立っていますが、このスタイルが社会の中に「富貴」が循環していく体制を創っていきます。
 尊徳の分度の思想で大切なことは、農民にだけではなく武士にも分度を課したことです。一〇〇石でなく七〇石で暮せと。分度は権力を制限する思想でもあったのです。荒廃した六〇〇の村々を復興し、豊かな村に変えましたが、藩主や武士が分度を行わない所は、仕法を一切引き受けませんでした。
 困窮する農民は、度々、生きるために一揆を起こすしかない状況に追い込まれます。蔵は明けられ、租税は多少は減免さるものの、指導者は打ち首です。尊徳は一滴の血も流さず、分度の思想で農民を豊かにし、武士をも富ませました。
 この事実は今日の諸問題を考える上で、極めて教訓的です。国家はどうしても支配的な一定勢力の利益の貫徹を目指します。また戦争は国家が発動します。この国家に分度を課さないと、国民は幸せにならないでしょう。
 権力を制限する分度を、自主性に根差しつつ、近代社会において徹底させたのが市民精神です。封建的身分から人々を解放し、自由な芸術世界をうたい上げたイタリア・ルネサンス、そして自由・平等・友愛のフランス革命は、市民精神の発露です。日本でも戦国末期、自由都市堺における会合衆、今井宗久、千宗易、津田宗及たちは、経済力、政治力、文化力のある独立不羈の市民として、織田信長や豊臣秀吉に堂々と対峙しました。
 「都市の空気は、人間を自由にする」。自由と自治、市民精神は、都市がもたらしたものでした。都市は、古代においては「人々を家族制度や奴隷制度からも解放する」。ルネサンス期においては「封建的支配と君主制から解放する」。現代では「資本主義でも社会主義でも問題となる官僚制から解放する」。このように言われます。
 国家と違って都市は自治体です。自治体は市民精神によって支えられ、自由と自治を本質とします。この市民精神が溌溂と発揮された例として、ここではギリシャの文化大臣メリナ・メルクーリが一九八三年に宣言した「欧州文化首都」について少し触れます。

報徳サミットと欧州文化首都宣言

 メリナ・メルクーリは、映画『日曜はだめよ』で、陽気な娼婦役を演じて有名な女優です。ハジダキスの軽快なテーマ音楽も親しまれています。彼女は「ヨーロッパの各都市がその文化の豊かさを強調し、ヨーロッパ市民としてその多様性を共に祝う」ことを目指して、「ヨーロッパ文化の多様性と豊かさ」「文化的絆の確認」「文化に触れての相互理解」「ヨーロッパ市民の自覚」を呼びかけました。
 私たちの報徳サミットにも、大きな刺激を与える宣言です。都市の再生、生活に新たな活力、住民による街のイメージアップは、まさに私たちが目指すところでもあります。こうしたそれぞれの都市が、その地域に即した活動を展開して初めて、グローバル化の功罪が検討できますし、芸術文化、精神文化の創造的で新しい発展がうまれるのです。
 最初の開催都市は一九八五年のアテネ。それ以降、毎年一︱三の都市が選ばれ、今年までに六十八都市で開催され、二〇二八年まで開催都市が決まっているといいます。
 権力行使の国家とはちがって、次々に文化首都を創り連携していく市民精神の発揚は、社会の無限の力を導き出しています。
 報徳サミットと文化首都構想は、東西、同じ頃にスタートしています。現在はこうした企画が中国や韓国などの各都市でも始まり、報徳サミットに結集する私たちは、歴史的にも先駆的な役割を担っていると自覚していいでしょう。
 文化政策を長期的にいかに開発するとか、観光の促進、地域経済社会への新たな効果など、こうした活動を通じて私たちも、社会も、よりよく成熟していくのだと思います。

現代版「いもこじ」――「地域部活」未来創造プロジェクト

 報徳には「いもこじ」という考え方があります。たらいの中でごしごし芋を洗っていくと、それぞれの芋の個性が輝き出る、今風の言葉では「熟議」といったらいいでしょうか。よく話し合うことによって、それぞれの個性も共有できますし、合意形成も容易、少数意見も後で正しかったかもしれないと検討の余地を残します。尊徳の考え方にはこのように徹底民主主義が息づいています。
 今回の全国報徳サミット御殿場市大会では、小学生の学習発表の中で金次郎の創作劇を拝見しました。昨年の掛川でのサミットでは、「地域部活︱未来創造プロジェクト」が創作劇を披露しました。現在、学校のクラブ活動が問題になっています。その新しいあり方を求めて、学校の枠を超えた中学生からなる地域部活の集まりで、その成果の発表をしたものです。
 生徒たちの活動スタイルは、「円周の上に立つ」「上下関係がない」「強制がない」「参加の熱量を同等に求めない」「ありのままでいる」「共に過ごせる居心地の良さ」としています。個性化と共同化の同時的で自覚的な追求です。
 この活動の特徴として、市民としての自覚と主体的な学びの追求、地域文化遺産の活用、芸術の力を活用した社会課題の解決、文化を創造する主体者意識の形成、等々が指摘できます。報徳サミットがこうした小学生、中学生など若い人たちの活動に力を与えていることは大変うれしいことです。

尊徳の五常講と協同組合の思想

 「資本制的生産様式の支配的な社会における富は、一の商品集積としてあらわれる」というのがマルクスの『資本論』の冒頭です。地球上には様々な富に満ち溢れている、しかしその富を全部商品に変えていき、資源を利用し尽くす。最後は「我が亡き後に洪水よ来たれ」と全くの無責任体制になっていく。マルクスが問題にしたのはこの資本の論理です。
 そうならないために資本をどう管理するかが問題となります。国家管理でやろうとしたのが今までの社会主義でしたが、資本はしたたかで、国家は破産させられてしまいました。最近の『資本論』研究では、マルクスの目指したのは協同組合、アソシエーションだということが言われています。何のことはない、その元祖は二宮尊徳の五常講です。
 協同組合は、イギリスのロッチデール公正開拓者組合(一八四四年)。ドイツのデーリチュの都市信用組合(一八五一年)、ライファイゼンの農村信用組合(一八六二年)などが挙げられますが、尊徳の「五常講」は、それよりも三十年も早い、一八一四年です。
 この講は、仁・義・礼・智・信を基盤において金を融通しあう組織で、この五常を人々に植え付け、お金にもこの五常を刻印せんとする、まさに経済と道徳の一致する金融世界の実現を図ったものです。
 こうした発想は、どのような現代的意味を持つのか。その今日的意味、現実における射程はどうなのか、等々は今後、もっともっと研究されてよいと思います。

至誠・勤労・分度・推譲

 いろいろな観点からアトランダムにお話しました。要は、私たちの市民社会をいかに平和で豊かなものにしていくかの追求です。市民精神、文化首都構想、熟議のいもこじ、未来創造プロジェクト、資本論、協同組合、五常講といろいろ触れてみましたが、締めくくりは、報徳の四大綱領の至誠・勤労・分度・推譲です。
 商品の力は、人々の能力や欲求を開発していくという面と、人々の紐帯を崩してばらばらにしていくという面の両面を持っています。それに身をまかすと、どうしても後者が強くなって「今だけ、ここだけ、自分だけ」の自分中心の個別化、分断化に流されて行きます。
 私たちがいかに社会を自覚的に、よりよい方向に構成し、幸せに生きていくか。大局的・根本的に現代の日本の課題を考えたときには、戦後の七八年間に花開いた「個人の自由の民主主義」は、その基盤でしょう。
 それを基盤にしつつ、社会に強く働く個別化、分断化を克服していくために、もう一歩グレードアップして、これからの七八年は「人と人とが豊かに結び付く連帯の民主主義」をどう作り上げていくのか、ということが課題として浮かび上がってくると思います。それに向かって私たちの日々の営みをいかに深化していくか。これが日本の大いなる活力と希望につながるのではないでしょうか。
 日本アフラックの創始者でがん保険を開拓したアメリカンファミリーで著名な大竹美喜さんと、そんなお話しをした折に、報徳の「至誠・勤労・分度・推譲」が話題になりました。
 「日本にはかつて武士道があって、ひとつの規範を与えていた。戦後、そういうバックボーンが消えてしまった。今さら武士道といっても始まらない。市民として生きる理念が必要だと思っていたが、至誠という個人的な営みが、勤労と分度に結びつき、それが社会的な推譲に通じていく、個人と社会をつなぐ素晴らしい考え方ではないか」と大変感銘を受けられました。
 そして「これは私が探していた市民として生きる道として、ぴったりだと思う」と申されて、「至誠・勤労・分度・推譲こそ、武士道ならぬ市民道の中核に置かるべきもの」といわれました。
 報徳の考え方には、このように現代とつながる多くのモメントが含まれています。
 現在世界は、そして日本も、激動期に入っています。物事を根源的に考え直さなければなりません。いろいろ問題提起的に話させていただきました。異論や反論が多々おありだと思います。「天・地・人の経文を読み解く」率直な対話を期待いたします。
(二〇二三・令和五年十一月十一日開催)

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