アフガニスタンからの米軍撤退に思う――民族自決をめぐって――(2021年『報徳』11月号 巻頭言)

かつて見た光景

既視感(デジャヴュ)という言葉がある。既にどこかで視た光景ということだが、八月三十日、カブール空港からのアメリカ軍撤退のニュースを見ながら、一九七五年四月三十日、サイゴンで繰り広げられた光景と重なった。

ベトナムは、一九四五年に太平洋戦争終結と共に独立したが、フランスが介入して戦争になった。ホーチミンは、フランス軍の拠点ビエンビエンフ―を五四年に陥落させ、フランスを撤退させた。しかし今度はアメリカが介入してベトナム戦争が始まった。そして十五年後のサイゴン陥落となる。

軍事介入は、民族独立の大義をその国に与える。「テロとの戦い」「アフガン民主化」もこの大義の前に敗退を運命づけられる。その愚行を、ベトナム戦争を教訓としないでアメリカは、半世紀後にまた繰り返した。大国の業なのであろうか。

民族自決権

ホーチミンは若い頃、宗主国フランスに学んだ。ベトナムの未来を考えた時、当時の革命諸党派の中でレーニンに最も共鳴したという。民族自決を言ったからである。

レーニンの民族政策を調べてみて驚いたのは、ロシア革命を成功させたレーニンは、直ちに帝政ロシアの支配下にあったポーランド、フィンランド、リトアニアなどの周辺諸国を独立させ、アフガニスタン、イラン、中国などと帝政ロシア時代に結んだ不平等条約を進んで破棄したことである。このような政治家は世界史上いなかったのではないか。

民族自決、周辺諸国の独立の保障、大国主義への自戒、少数民族への徹底配慮を掲げて、それを実行した。そして革命についても、その国の内部の自主発展のみによること、他民族への押し付けは大国による不当干渉で決してしてはならないこと、そして歴史上、他民族を抑圧して憎悪を招いてきたロシア民族は、何より「民族問題には特別に慎重であらねばならない」こと、「少数民族に対する譲歩と穏やかさは、行き過ぎる方が、行き足りないよりましである」と述べている。

しかしレーニン死後、スターリンによってはこの原則は破られロシア中心主義が復活する。民族問題は抑圧され、ここから出た制限主権論は、一九五六年のハンガリー事件を引き起こし、一九六八年のプラハの春を潰す侵攻になった。そして一九七九年のソ連のアフガニスタン侵攻になるのである。

アフガニスタンとパキスタンを結ぶカイバル峠

カイバル峠は、文明の交差点として名高い。しかしこの峠はソ連軍侵攻以後、侵略と難民の避難と送還の舞台になってしまった。

一九七九年十二月、タラキ政権が自立的なアミン政権に代わると、ソ連は軍隊を侵攻させアミンを倒してカルマル政権をつくった。これを契機に内戦状態になる。

アメリカは、反政府勢力であるイスラム戦士団のムシャヒディンや、後にアルカイダをつくるウサマ・ビン・ラディンを支援する。

十年後の一九八九年、ソ連が満身創痍で撤退すると、ムシャヒディン各派の連立政権ができたが、その後、タリバンが急速に勢力を伸ばし、一九九六年にタリバン政権が成立する。

二〇〇一年九月十一日のニューヨークで同時多発テロが起こった。アメリカは、タリバン政権がアルカイダと組んでテロの温床となっていると断定。十月からアフガン攻撃を開始し、十一月にタリバン政権を潰し、新しいアフガン政府を作った。

しかしアメリカ軍によるタリバン掃討は、民間人の犠牲を生み、国民の怒りをかって、掲げた民主化は進展しなくなる。

そして今年に入り、八月十五日、タリバンは首都カブールを奪還した。アフガン政府は崩壊し、八月三十日のアメリカ軍撤退となったのである。

中村哲さん伊藤和也さんたちのペシャワール会の活動

内戦による荒廃の中、一九八〇年代からパキスタンで医療活動をしていた中村哲さんは、アフガンからパキスタンに逃れる難民への医療活動に限界を感じ、逆にカイバル峠を越えてアフガンに入り、「百の診療所より、一本の用水路」をスローガンに二〇〇二年「緑の大地計画」を始めた。

刻苦の十年間の後、砂漠は緑野にかわり、用水路で潤う土地は六十万人の人たちの生活を支えるに至った。

自衛隊派遣を審議する国会に参考人として呼ばれた中村さんは、「十数年かけて築いてきた日本への信頼感が、現実を基盤としない議論によって、軍事的プレゼンスによって一挙に崩れ去る」ことを懸念して、派遣は「当地の事情を考えると有害無益」と述べた。政権党から「売国奴」と罵られ、「発言の取り消し」を求められた。

求められているのは、内政不干渉と政治的中立である。自衛隊派遣で「活動はこれまで以上に危険になる」と語った通り、中村さんも伊藤さんも、志半ばで命を落とすことになった。

タリバンの支配に対して、西欧的価値を根付かせるというのは、善意であるかもしれないが困難な課題である。どんな良い価値も人々の生活文化の襞にふれなければ、内在化しないからである。いわんや戦争と支援で落ちる外貨頼りの経済が広がれば、「上は職権乱用で稼ぎ、下は傭兵となって稼ぐ」歪んだ構図から抜け出せなくなる。

現地で求められているのは、タリバンの掃討ではなく、干ばつと飢餓からの脱出、農業の再建なのだ。

戦争への加担

日本政府特別顧問としてアフガンで武装解除の任務にあたっていた伊勢崎賢治さんは、「日本が敗戦国の一つであるという意識がありますか」とすべての日本人に問いたいと言う。

アメリカは、アフガン戦争を個別的自衛権の発動として始めた。そこにNATOが「不朽の自由作戦」として集団的自衛権を行使して参画した。日本はその下部作戦の「海上阻止行動」に参加している。インド洋に海上自衛艦を派遣し、実質的に参戦しているのだ。

この事実は重大である。しかし私たちにその意識はない。知らないうちに戦争の当事者になっているところに、集団的自衛権のブラックホールがある。

日本の参戦は、アフガニスタンの人々に役立ったのだろうか。自衛隊の洋上給油が、無辜の人々への空爆、殺人に加担していないとは言えないだろう。

アフガニスタンに日本はこれまで七〇〇〇億円の出費をしている。この国民の税金は、水泡に帰した。

対して、中村さんたちのペシャワール会は、民間からの寄付金二十億円で、水路をつくって緑の大地を復元し、何十万の人たちの生活を確立させた。

国家権力を後ろ盾にし、一方に加担した開発援助の、深刻な問題がここに露呈している。

軍事的プレゼンスへの問い

アフガニスタンは「帝国の墓場」といわれる。誇り高い騎馬民族であるアフガニスタンに手を出した国は、衰退か、滅亡を運命づけられるという。アレキサンダー大王帝国は滅び、大英帝国は衰退し、ソ連邦帝国は解体した。

アメリカはどうであろうか。「世界の憲兵」と批判を受けつつ、各国に軍事介入し、その犠牲者は何十万人に及び、米軍兵士の犠牲も大きい。アフガンでは二五〇〇人の米軍兵士、四〇〇〇人の米国民間人が死んでいる。アフガン政府軍は七万人、反政府軍五万人の犠牲者という。

戦後七十年、朝鮮、ベトナム、イラクなど合わせれば、どれだけの犠牲者がになるだろうか。二〇〇一年の九・一一は、その落とし前をつけられた事件ともいえるが、それに対してアメリカは、アフガン侵攻で応えた。 政治の深みも外交の知恵もない、あまりにも単細胞な報復戦争である。

「暴をもって暴にかへ、その非を知らず」と中国の聖人 伯夷・叔斉はいう。ソ連といい、アメリカといい、こうした大国主義による粗雑な軍事連鎖は、今後、政治と外交の冷静で奥深い力によって、しっかり断ち切られなければならない。

自主自立の道

民族自決について考えるとき、日本は民族独立の課題をまだ果たしていないのではないかという思いがよぎる。かつて外務大臣の椎名悦三郎は、野党からアメリカとの関係を問われ、「アメリカは日本の番犬だ」と答弁した。さらに追及されて「いや番犬様です」と言い換えた。

誇りを自虐に変えざるを得ない日本の冷酷かつ悲しい現実をユーモラスに浮かび上がらせた名答弁だと思うが、この「番犬様」にて戦後何十兆円の思いやり予算を出し、沖縄住民の意思に反して辺野古基地の建設を進めている。

このままで、台湾海峡で火を吹けば、台湾に米軍基地がない以上、沖縄が中国対峙の前進基地となる。日本の自主性、自決性、独立性は一体確保できるのだろうか。

「打つ心あれば、打たるる世の中よ、打たぬ心に打たるるはなし」と二宮尊徳はいう。深みと知恵を尽くした自主自立の平和構築外交こそ、世界が日本に求める問題解決の本道であろう。

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