軍隊のない国コスタリカ(『報徳』2023年5月号巻頭言より)

コスタリカに負ける

 昨秋のサッカー・ワールドカップで、日本はコスタリカと対戦した。直前にコスタリカはスペインに七対〇で負けている。日本が勝つだろうと誰しも内心思っていたのではないだろうか。ところが、一対〇で負けてしまった。
 スペインに大差で敗けたにもかかわらず、コスタリカは何事もなかったような落ち着き払ったプレーで日本と戦っていた。チームのこの雰囲気が強く印象に残ったし、コスタリカは軍隊のない国だという紹介も印象に残った。
 コスタリカは軍隊を持たない国なのだ。チームの堅固で悠々とした戦いぶり、軍隊のないという国柄。一体どのような国なのか、コスタリカに、俄然、興味が湧いた。

コスタリカの位置・人口・政治・産業

 コスタリカは、中米に位置している。九州と四国を合わせたぐらいの大きさで、南の隣国は運河のあるパナマ、北の隣国はサンディニスタ革命のニカラグアである。そしてその北がホンジュラス、エルサドバドル、グアテマラ、ベリーズと続き、その北がメキシコとなっている。
 スペインの植民地だった一八〇〇年代には人口五万人程で、一九〇〇年代に入って二五万人になり、一九六〇年代に一〇〇万人になった。そして二十世紀後半から人口は急増し、二〇一五年には五〇〇万人を突破したという。
 人口が増えた原因は、政治の安定と社会基盤の整備にある。戦後の混乱期の一九四八年に内戦が起こった。その克服として一九四九年に憲法が制定されて安定政治が目指され、軍隊の廃止、福祉国家の建設が掲げられた。
 それ以降、教育の普及、医療制度の整備、生活環境の改善に精力的に取り組み、現在はその成果の上にある。外国人の定住にも寛容で、移民受け入れ国でもある。
 コスタリカは、コーヒーとバナナの輸出国として知られてきた。それに牛肉と砂糖が加わり、輸出四品目で九割を占めていた時代もあったが、工業国への変身を遂げ、現在はハイテク分野が経済成長を牽引しているという。観光、農業、エレクトロニクスはコスタリカ経済の三本柱である。

内戦・そして軍隊の廃止

 第二次世界大戦でヨーロッパへの輸出ができなくなったコスタリカは、経済的に大きな打撃を受けた。ラファエル・カルデロン=グアルディアは、経済不振と内政不安を解決するため大胆な社会福祉政策を実行した。これがその後のコスタリカの基盤となる。
 ところが一九四八年の大統領選挙でカルデロンは敗れたにもかかわらず、カルデロン派で占められた立法議会は結果を承認しなかった。これに抗してホセ・フィゲーレスが武装蜂起する。戦闘は六週間続き、四千名の死者を出すに至った。
 勝利したフィゲーレスは、新しく憲法を制定し、社会福祉、公共サービスの制度化、選挙最高裁判所による国民の選挙参加と不正防止、強権の行政権の制限、女性と黒人の投票権承認、常備軍の廃止を規定したのである。
 軍隊の廃止は、フィゲーレス自身に向けられるかもしれないクーデターの芽を摘んでおくこと、軍事費削減で限られた国家予算を戦後復興に向けることという極めて現実的な要請から生まれたものだという。
 こうして一九四九年憲法に基づく政治体制がつくられ、以後、一九八〇年までの三十年間の発展は、コスタリカの「黄金期」と呼ばれている。戦後復興と高度経済成長の日本の経緯と似た歩みといえるかもしれない。

自主独立のしたたかな外交

 ホセ・フィゲーレスの創設した国民解放党は、利益や税金をいかに社会に還元するかに意を尽くし、消費レベルの引き上げ、学校、道路、病院、発電所の拡充や、研究者や技術者の人材養成を充実させた。
 外交関係は、アメリカとの関係を良好に保ちつつ、中南米の独裁政権へのアメリカの援助や介入を批判し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの民族解放運動にも目配りするなど、東西冷戦の狭間にあって巧みな外交を展開していく。
 しかしこの黄金期も、二度のオイルショックによって、マイナス成長、実質賃金の下落、失業率の上昇を招き、対外的には一九七九年に隣国ニカラグアにサンディニスタ革命が起こり、そこにアメリカが介入する事態となって、東西対立の渦にもろに巻き込まれていく。
 アメリカは反革命のコントラを組織し、ニカラグアを内戦に持ち込み、コスタリカは避難民の流入や秘密基地にされるなど、深刻な影響を受けた。
 軍事力を背景にしたクーデターや独裁は中米の宿痾だが、コスタリカは非武装平和国家を貫ぬく。国民の間には「軍隊がないから平和なのだ」という意識が定着しており、それが誇りになっているという。

紛争構造の転換

 一九八一年に成立したアメリカのレーガン政権は、不本意と思った国に対してはCIAを使って介入した。紛争を激化させ、ニカラグアだけでなく、グアテマラやエルサルバドルにも武力介入していく。
 コスタリカのルイス=アルベルト・モンヘ大統領は、こうした動きに対して、一九八三年、「積極的永世非武装中立宣言」を発表した。
 この「中立宣言」は、争い事の一方にだけ味方しない「中立」という言葉の前に三つの形容詞がついている。「永世」はずっと、「非武装」は軍隊をもたない形でこの「中立」を維持する宣言である。「積極的」は更に大きな意味があり、「積極的中立」とは、どちらにも肩入れしないで「仲介者として積極的に介入する」という意味だという。
 「中立宣言」は、発表当日、隣国のニカラグアが支持を表明し、スペインのゴンサレス首相、フランスのミッテラン大統領が歓迎を表明、中米、南米が続いた。レーガン政権はこの中立宣言を中米政策への脅威とみなして賛意を示さなかったが、翌年しぶしぶ認知する。しかしCIAのコスタリカ国内での暗躍や工作は続いたという。

「平和とは決して終わることのないひとつの過程であり、
平和を求める努力に決して終わりはない」

 非武装中立政策の徹底は、一九八六年に大統領になったオスカル・アリアス=サンチェスに託された。彼は、中米包括和平プランであるアリアス・プランを提示し実行に移す。
 それは、中米の紛争を米ソ対立という冷戦の文脈から切り離し、要因を中米各国の内部にもとめるものであった。米ソ主導の国際秩序から離れ、中南米自ら紛争を解決する道の模索である。
 紛争の構図を転換し、中米和平の支持を欧州各国に訴え、冷戦の枠を超えた道を探る。一九八七年、「平和の輸出」といわれたアリアス大統領の「中米和平合意」の成立に対して、ノーベル平和賞が授けられた。そして表記の演説となった。
 現在日本では、侵略されたらどうする、敵基地攻撃だといった議論がされている。「平和への努力を払っている国に攻めてくる国はない」とコスタリカ国民は確信しているという。
 国連は二つの大学を持ち、国連大学は日本に、国連平和大学はコスタリカに置かれている。いずれも平和国家ということで置かれたのだが、これまで日本は果たして、自主独立の気骨ある平和外交を展開して来ただろうか。
 今日の国際問題の最大の宿痾は、大国の覇権主義と軍事同盟である。この克服なくして人類の未来はない。コスタリカの歴史的経験は、天・地・人の理りに生きんとする報徳の道の探求に、一つの大きな示唆を与えている。

「ハポン・ハポン」と親日国コスタリカ

 サッカーの話しに戻れば、スペインがいかに強いとはいえ予想外の大敗北でコスタリカの人たちは打ちひしがれたが、そこは陽気な国民で、写真を一・二・三、パチっと撮るところに負けた七を入れ、「我々は人類の歴史的瞬間に立ち会って幸せです。五・六・七、パチッ」と肩を寄せ合っては写真を撮りあっていたという。
 それだけにスペインとドイツを破った日本への敬意は高く、その日本に勝った喜びは大きかったが、その分更にまた日本ファンが増えたと言う。
 昨年の女子サッカー二十歳以下のW杯は、コスタリカで行われたが、日本の出るどの試合にもコスタリカの人たちの日本応援は並はずれたもので、決勝でスペインに負けて日本は準優勝になったが、試合が終わった後も「ハポン・ハポン」の大合唱が続いたという。平和国家としての文化的親近性は大きい。
 そして今夏、女子全体杯がオーストラリア・ニュージーランド共催で行われる。日本もコスタリカも見事に出場権を獲得した。そして同じリーグで対戦予定という。大きな楽しみである。

 国立近代美術館長の小松弥生さんから報徳社にいただいた年賀状に「コスタリカに行ってきました」とあった。えっと思って電話したところ、何と夫君の小松親次郎さんがコスタリカ大使だと知って驚いた。文科省の研究振興局長をされていた親次郎さんに東京学芸大学は随分お世話になった。
 コスタリカがますます近くになった。コスタリカの情報はほとんどない。国本伊代編著『コスタリカを知るための六十章』(明石書店)に拠ったが、帰国されたら小松さんから沢山のお話を伺いたいと思う。

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