変革者の肖像先農殿の佐藤信淵(2021年『報徳』5月号 巻頭言)

四月には例年、本社常会に先立って「二宮尊徳・佐藤信淵両先生の例祭」が行われます。今年も、四月四日、龍尾神社の龍尾重幸宮司を斉主に取り行われました。

岡田良一郎は、報徳社を指導する二宮尊徳を先聖殿とし、農学舎を指導する佐藤信淵を先農殿として尊崇しました。大講堂の講壇の上には、九州秋月藩の藩主だった秋月種樹による「先聖殿」「先農殿」の書が掲げられています。

『祭る文』には、「全く同徹一体の哲人と謂うべし。誠に以って万世の師表と仰ぐべし」とあって、報徳社の活動は二人の学問と実践によって導かれていることが語られています。二宮尊徳はわかりますが、佐藤信淵はそれほど馴染みがありません。一体どのような人物だったのでしょうか。 

百科全書的な知的巨人

佐藤信淵は、江戸時代末期、一七六九年・明和六年、出羽国秋田県に生まれています。一八六八年が明治維新ですから、その一〇〇年前ということになります。尊徳は一七八七年生まれですから、信淵は尊徳より十八歳年長です。代々学問をする家に育ちました。

十三歳のとき父と共に諸国を遍歴します。天明の大飢饉の惨状を見たことが信淵の学問に大きな影響を与えました。知的感受性に優れ、覇気に満ちた青年は、最高、最新の学問を求め、十六歳で江戸に出ます。

最新の学問は蘭学でした。宇田川玄随に本草学を含む蘭学を、木村泰蔵より天文・地理・暦数・測量の術を学びます。儒学は井上仲竜に学びます。自らも全国を遊学して学問を深め、天明・寛政・享和の時期は、彼の修業時代でした。

当時の対外情勢は、ロシアが極東に進出した時代でした。ラックスマンが通商を求めて大黒屋幸太夫たち漂流民をつれて根室に来航したのが一七九二年・寛政四年で、レザノフの長崎入港が一八〇四年・文化元年で、幕府が通商を拒否したため、ロシア船が樺太、択捉、蝦夷地を襲撃したのが一八〇六年です。

一八〇八年、不惑の年を迎えた佐藤信淵は、阿波藩の家老の顧問として召抱えられ、四国徳島に行きます。戦術や砲術の講義を行い、対外危機の時代情勢に鑑み、兵学や対外政策について研究します。そこで著したのが『海防策』『鉄砲窮理論』『西洋立国史略』です。

三年の滞在の後、千葉県の東金市に移ります。医者をしつつ、今度は農耕を営み農業技術の研究を行い『農政本論』『草木六部耕種法』『秘伝種樹園法』などを著します。 

平田国学との出会い

一八一五年・文化十二年、佐藤信淵は平田篤胤の気吹舎に入門します。信淵は四七歳、篤胤は七歳若い四十歳です。油の乗り切った信淵がなぜ年下の国学者の門を叩いたのでしょうか。秋田出身という同郷のよしみもあったでしょうが、信淵は悩みをかかえていました。それは世界観に関するもので、西欧からの天文学や地理学や耶蘇教によって揺らいた宇宙観や世界像の基礎をどこにおくか、天地創造はどのような神によるのか、死後の霊魂はどうなるのかといった根源と内面に関わる問題でした。篤胤の産霊神による宇宙生成論は、信淵の胸にかっちり収まるものだったのです。こうして信淵は国学的宇宙形成論によってこれまで蓄積してきた膨大な知識を集成し、強固な自己主張の基盤を形成します。

平田国学は明治以降の国家神道との結びつきや、祭政一致、廃仏毀釈、排外主義、膨張主義などによって否定的に評価がされがちですが、幕末維新の変革期には草奔の人たちの主体形成に大きなパトスを与えました。島崎藤村の『夜明け前』は、平田国学の徒である青山半蔵を主人公とした幕末維新から自由民権運動に至る一大叙事詩です。

気吹舎に入門と前後して信淵は吉川源十郎の門にも入り、神道を巡る問題に連座して「江戸払い」の罰を受けます。以後長く千葉県の東金市に住むことになります。そこで『経済要略』『混合秘策』『天柱記』『鎔造化育論』『経済要録』『山相秘録』などの主著を著わします。

六五歳の時に禁を犯して江戸に入り、今度は「江戸十里四方追放」の罰を受け、浦和に住みます。そこで『復古論』『防海余論』『権貨法』などを著わしています。

多彩で慧眼な理論活動は名声を得て、諸侯や各藩士から教えを乞うものが多くありました。七八歳で江戸に入ることが許されます。そして一八五〇年・嘉永三年、八二歳で没しました。

例祭の「祭る文」には「佐藤先生亦僻隅に生まれて家学を嗣ぎ、天地を経とし、探求を緯とし、農学を講じて経世を策し、道徳を和して人倫を深らしめ、殖産の術を究めて富国安民を説く。更に世に施すや源泉法を案じ、利殖を計示し、共同施設を誘う。家学五代を享けて、精撰三十六部二百十五巻を著す。亦偉大の績と云うべし」とあります。

勤農開物

二百十五巻の著作に貫くのは、幕末期の社会と経済をどうするのか、貧困、飢餓、子供の間引きなど、悲惨な農村をどう打開していくかの強い問題意識でした。

宇宙生成論の「産霊」の原理に「開物」の思想が結びつきます。信淵は開物の業が不十分だから貧困が生ずると考えます。物を開くこと、即ち、多品目の農産物を栽培することを説き、これによって農業生産力を上げ、商品流通を盛んにし、殖産興業の道を開くことを企図します。鎖国の時代でありながら航海と通商の大切さを説き、開墾事業を進め、嬰児陰殺を無くして孤児貧児のための共同の家を作ります。

富の偏在に対して、分配の公平を考え、創業・開物・融通・垂統の体系的政策を提言します。信淵はその実現を英明な名君のよる政治に求めました。それはそれを阻害する者として武士たちへの批判となり、こうした政治批判が物議をかもすこともありました。

晩年の『垂統秘録』においては、士農工商の社会階級を無くし、国民全体を本事、開物、製造、融通、陸軍、水軍の六府下における草、樹、鉱、匠、賈、傭、舟、漁の八民として、全てを国家の一員とし、租税を廃止し、国家政務の費用は事業公営の利潤の一部より出し、生産資本や土地は国有とする社会建設理論を主張し、封建制度の廃絶を論じています。

自然・人間・社会を統べる新たな生成論を

以上、佐藤信淵の思想を尋ねてみました。佐藤信淵の思想は、産霊神の宇宙生成論に発し、開物の思想によって封建社会の変革を求めた革命の思想となっています。

農民から武士に取り立てられた二宮尊徳は、封建社会そのものは相対化しませんでしたが、天道と人道のダイナミズムから自然・人間・社会の在り方を考え、その分度の思想は、農民だけではなく武士階級にも適用されて権力を制限し、六百の村々を豊かな村に変革しました。

岡田良一郎が、報徳社運動を進めるに当たって、その魂として革命者と変革者のこの二人を据えた気宇壮大さにあらためて思いを深くします。

ポスト・コロナの世界が模索されています。人類は明らかに分度を越えました。資本を軸にシステム化された体制によって人道が曲けられ、曲がった人道が天道である地球環境までで曲げてしまったのが、環境破壊と地球温暖化でしょう。

棲み分けていた生態系が破壊されたため、動物の病原菌が人間に感染したのがコロナといわれます。曲がった人道を修正し、その原因である人間の経済活動を如何に変革するか。私たちは今、佐藤信淵が直面していたと同じ課題と対峙しています。

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