沈む夕日の美しさで町おこし――若松進一さんとの対話――(2021年『報徳』10月号 巻頭言)

生きた言葉

木下彰二さんが先月号の「愛媛報徳社レポート」で、「一日三枚のはがきを出すと幸せになります」という若松進一さんの言葉を紹介していた。久しぶりに若松節に接して心がときめいた。

四国は愛媛県、今は伊予市になっているが、上灘村と下灘村が合併して出来た双海町。伊予灘に面し、山が海岸にまで迫ってくる十六キロの海岸線の町で、昔から地引網によるイワシ漁が盛んな、ミカンと漁業の町である。しかしいずこも同じ、都会への若者流出と過疎に悩んでいた。

瀬戸内海に沈む夕日が美しいところだが、見慣れてしまって、その美しさを誰も意識しない。若松さんは夕日に着目した。浜辺を整備し、恋人岬をつくり、シーサイド公園に「道の駅」を呼んだ。夕日の名所として今は年間五十五万人の人が訪れる。

若松さんの言葉は、生き生きと核心をつく。「まちづくりは、まちを語る物語づくり運動」と喝破し、「自分のまちを語れない悔しさ」をバネに、努力を重ねる。生きた言葉が人々の心を捉える。それが行動を呼び覚ましていく。

漁師と青年団運動

若松さんは漁師の家に生まれた。お父さんは鯛捕りの名人で、漁に出るといつも大漁旗をなびかせては帰って来たという。宇和島水産高校を出て家業を継ぐが、同時に青年団運動に没頭した。素晴らしい仲間に恵まれ、社会教育や公民館運動に優れた見識をもった指導者に出会った。当時、青年団はションション青年団と言われ、レクリエーションとディスカッションをこよなく愛し、酒を飲んでは議論し、村祭りも盆踊りも仕切って郷土愛を育んだ。

青春を謳歌する中で、みんなの潜在能力が引き出される。人間としての深い信頼関係の上に事をすすめる素地が創られた。NHKの『青年の主張』にも出て、「捕るだけの漁業でなく、育てる漁業へ」と論を張った。最後には愛媛県青年団連合会の会長を務めている。

遅くまで議論をし、朝早く漁業出る。二十五歳の時に過労で倒れ、三か月入院。無理が出来なくなり、役場に勤めることになった。こうして「日本一を目指した夕焼け課長奮戦記」が始まった。

自分の町を語れない悔しさ

田舎には、仕事がない、活気がない、文化がない、嫁が来ない、プライバシーがない、遊び場がない、良い店がない…嘆き節を若松さんは、百八十度転換した。

田舎には仕事を創り出す喜びがある。源私力を燃やすエネルギーがある。次世代文化を創り出す力がある。男を磨く山や川や海がある。人を気遣うコミュニケーションがある。自然や季節という店がある。時代にもてあそばれないアイデンティテ―がある。

自分の町を語りたくても素材がない、郷里への思いも乏しい。思いを抱き、アイデアを構想するたくさんの人がいることが肝要だ。

社会教育の仕事をして、青年たちのたまり場がないと痛感し、四畳半、囲炉裏の一戸建ての小屋を自宅の敷地につくった。

七・八人が車座で囲炉裏を囲む。宴会所だが、囲炉裏の煙から「煙会所」とした。町づくり構想から悩みの相談まで、いろいろな人が出入りし、煙で涙することもあるが、喜び、悲しみの涙も共にする。「天声人語」で、煙が目にしみ、会話が心に滲みる煙仲間たちと紹介された。

「いい町には必ず、挨拶ができ、公衆トイレが綺麗、花が咲いている」と視察に行って気づく。町づくりのスローガンを「人づくり」「拠点づくり」「町民総参加の日本一づくり」として、その実現に乗り出した。

見慣れたものを新鮮に見る力

「こんな素晴らしい夕日が見られるなんて」、無人の下灘駅でつぶやいたテレビディレクターの言葉が心に残った。

夕日を巡る旅を始める。各地に素晴らしい夕日の場所があり、自慢してもよさそうなのに、そこまでの思いがない。これはいける。

一か八か、下灘駅で「夕日コンサート」を開いて成功させた。やがて砂浜、レストラン、夕日ミュージアム、特産品センターのシーサイド公園に結実して行く。

見慣れていると、その良さに気づかない。若松さんは気づきの人である。自己客観化、外からの眼差し、俯瞰する見方がその源泉だろうか

ドイツの劇作家ブレヒトは、同化して見るのでなく、異化して見る大切さを説いている。劇を見る時、私たちは舞台の主人公に同化して見ている。そこしか見えなくなる。距離を置いて全体を見る。異化効果によって初めて新たな認識が開かれるという。

作家のアンナ・ゼーガ―スは、見慣れた現実を、誰も見たことのないように新鮮に捉える大切さを説く。そこに働くのは、理屈の意識性でなく、感覚の直接性、無意識を意識化する新鮮さである。

 

出会いを我がものに


若松さんの大切にしている言葉がある。「鮮やかに創造し、熱烈に望み、心から信じ、魂を打ちこめた熱意を持って行動すれば、何事もついには実現する」。ホール・J・マイヤーのことばで、セールスにやってきた青年からもらった薄汚れたパンフレットに書かれていたという。人生への大きな励ましだ。

若松さんは、出会ったもの全てを我がものとして、新鮮に捉え返す。十六キロの海岸線に植える花は、「初春の水仙・早春の菜の花・春爛漫の桜やつつじ・初夏の紫陽花・晩夏の酔芙蓉・晩秋のツワブキ」と瑞々しい。

「情報」は、「場の報」であり、「情けの報」。インターネット時代になっても、人の持つ温かさや魅力こそが情報。水は低きに流れるが、人は高きに流れる。質の高い情報の共有は活力の元。

「長」の付く人は「金を出す・口を出さない・責任を取る」、職員は「知恵を出す・汗を出す・責任逃れしない」。

町づくりは革新運動。今を否定して新しく生きれば、前例踏襲どころか、アイディアが次々に湧いてくる。学びのないところや、異文化ギャップの持てないところに発展はない。

出る釘は打たれるが、出過ぎた釘は打ちようがない。出過ぎないと物も引っかからない。

愛媛報徳社あらしやま報徳塾へ

十年ほど前、「国立大洲青少年交流の家」に伺った。所長の新山雄次さんは、地域の「年輪塾」に入っていて、二宮尊徳の勉強を始めているという。主宰は若松進一、塾頭が清水和繁。『二宮翁夜話』を一日一話、二百三十三あるから、一年かけてインターネット配信し、それを基に集まって研究するのだという。

これが縁となって、総括研究会に中桐万里子さんと私が呼ばれた。中桐さんとはここで初めてお会いした。若松さん、中桐さんの語りの素晴らしさには、度肝を抜かれた。

これがすべての始まりだった。現在の愛媛報徳社に発展し、今年九月からは「オンライン報徳塾」で清水和繁さんの『二宮翁夜話』の講義が始まった。

日本の歴史上、沈む夕日を止めた男が二人いる。「音戸の瀬戸に沈む夕日を招きとめた」平清盛。もう一人が「しずむ夕日が立ちどまるまち」にした若松進一である。

『昇る夕日でまちづくり』(アトラス出版)は、読むたびに、知恵と勇気と展望を与えてくれる。今回読み返して、活動に確かな経済感覚が貫かれていることに気がついた。事業成功の秘訣だろう。

久しぶりに若松さんに電話した。「年輪塾」は、宮本常一の研究に始まり、二宮尊徳、ジョン万次郎、中江藤樹と続いていたが、今はコロナで中断中という。

瀬戸内海を見晴らす、お母さんが丹精したミカン畑の斜面に「年輪塾」はある。若松さんは童謡『みかんの花咲く丘』が好きだと知った。夕日を眺めながらベランダでこの歌を共にうたう日を楽しみにしている。

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