「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中に言い止むべし」有馬朗人先生を偲んで(2021年『報徳』2月号 巻頭言)

原子核物理学者

有馬朗人先生は、昨年末の十二月七日、心不全で急逝された。九十歳だった。一昨年の『報徳』新年号で、浜松中学同期の中村雄次さんと共に鼎談をさせていただいた。中村さんは十二月二日には浜松の同期会で、先生の談論風発を楽しんだばかりだったので、仰天されたという。矍鑠としておられ「やりたいことが沢山あって、百二十歳まで生きないととてもやりきれない」とよく言っておられたから、一番驚いたのは先生ご自身だろう。

原子核物理学の分野において、原子核の複雑状態への解明に大きな業績を挙げられた。有馬―堀江の配位混合理論、殻模型と融合模型の新しい提唱、核子の集団運動のボソン模型による解明などで知られている。ノーベル賞は逸してしまわれた。自負があっただけに、議論が解禁される五十年後まで生きてその経緯を知らないと、と冗談に言われていた。

東京大学教授から総長になられ、その後に文部大臣、科学技術庁長官を務められ、科学技術立国日本の基盤づくりに尽力された。

理科教育ルネサンス

「理科を教えるのは、理学部の出身者でないと駄目だ、という考えを有馬先生はお持ちらしい」という噂があった。教育学部に身を置いている者としては、見過ごせない意見である。先生にお会いしたところ「理学部の学生は、大学や研究機関だけでなく、学校教育の場にもっと出て行って欲しいと言ったのが誤解されたのだよ」と言われた。

これが縁で、東京学芸大学創立六十周年記念に『日本の教育と教員養成の今後について』の講演をいただいた。現職の先生方には後に『物理への憧れ―私の生い立ち―』を語って下さった。感銘深いお話で、「大局的な見方が出来た」「自分を振り返りつつ話が聞けてよかった」「子どもたちの能力を本当に引き出しているか反省させられた」「社会的責任ということが印象に残った」など、皆さんに多くの刺激を与えた。

『地球を考える会』を主宰され、温室効果ガス問題、再生可能エネルギー問題、原子力や二酸化炭素排出低減の技術開発問題などについて政府に提言を出された。その理科教育ルネサンス分科会を先生は毎月開催された。そこにお誘いいただき「教員養成系大学における理科教育――課題と展望――」の報告をした。「釜石の奇跡」の片田敏孝さんの話やシェールガスや地熱発電の現状など、朝八時から十時までの最新情報と緊密な議論は、大変刺激に満ちたもので、視野を大きく開かせていただいた。ここから小中学校の放射線教育支援のプログラムなどが生まれた。

人類の最大課題、エネルギー問題

浜岡原発の視察にご一緒したことがある。東北大震災で浜岡原発は停止され、海水から原発を守るための防御壁のかさ上げ工事の最中だった。「こんな立派な施設があるのに機能してないのはもったいない」と構内を歩きながら言われた。二〇〇年前は一〇億人だった世界人口が今は八〇億人で、エネルギー問題が深刻化している。温室効果ガスを減らしつつ安定的エネルギー供給するには、原発が必要と先生は考えられておられた。

近代科学への不信が私などはどこかにあるのだが、戦後復興を担った先生の世代は、科学技術への強い確信をもっておられた。使用済み核燃料の処理が出来なかったら止めるしかない、それが出来たら推進をという立場で、それだけに、放射能の半減期を短縮する研究の財源確保に力を注ぐなど首尾一貫されていた。

核分裂は放射能をだすが、核融合は出ないと聞いていたので、核融合についてお尋ねしたことがある。「水素が核融合してヘリウムだけになればよいが、一部三重水素のトリチウムになり、これが問題。ウランの核分裂物質より質がよく、燃やした後ゴミが少ない」が、研究途上で大きな財源が必要だと言われた。

『科学技術基本法』制定に奮闘され、一九九五年に成立。科学技術立国の基礎を固められた。人文科学や社会科学のためには『学術文化基本法』が必要である。「浜松中学で習った『古事記』『万葉集』『奥の細道』は、今の私に大きな力を与えている。文科系を是非充実させないと」と言われていた。

 卓抜な知的触発力

初めてお会いした時、「掛川の出身です」と申し上げたところ、「あそこには高天神城があるね。今川、武田、徳川が争った山城だが、徳川方の大須賀康高が近くの横須賀城主でいたのを、豊臣の天下になって有馬豊氏に変わった。私の祖先はそこで税金を厳しく取り立て嫌われた。〈有馬縄〉と言う言葉が残っているらしいよ」と笑いながら話された。詳しく御存知なので驚いた。

愛媛報徳社で今活躍している皆さんと知り合ったのは、卯之町の三好君枝さんの黄金味噌を訪問したことがきっかけだが、その家の前の旅館『松屋』に「有馬先生御一行」と書いた句会の看板があった。先生にお話すると「卯之町は、シーボルトの弟子の二宮敬作が医者をやっていて、シーボルトの娘のイネを養育して女医一号にしたところで、開明学校という古い小学校もあって、長野の開智学校、伊豆の岩科学校と並んで古い」と即座に返って来た。

『報徳』誌の鼎談でも、報徳運動の盛んな県を全く誤りなく言われたのにも驚いた。二宮尊徳をはじめ、地域で活躍した立派な人たちは深く知れば知るほど面白い、静岡でも岡田良一郎や金原明善などの地域の偉人を子供たちに是非教えて欲しいと力説された。

先生は、事柄を正確に、深く記憶されていた。幅広い正確な知識と学識の深さに接し、聞く者に、知的好奇心をかき立て、学びへの大きな意欲を触発して下さった。 

生涯の痛恨事、国立大学の法人化

「学長たちを集めて、運営費交付金増額の一揆を起こそう」とお会いした途端に言われて驚いたことがある。二〇〇三年の国立大学の法人化で予算が毎年減らされた。その責任を深く感じ、切迫したお気持ちだったのだろう。

「大学の運営費交付金は、絶対に減らないように法律に付帯条件をつけた。自民党は麻生太郎さんを座長に文教関係部会で責任をもって減らさないと約束した。しかし全部反故にされた」と語られた。法人化が大学改革ではなく、政府の行政改革に利用され、「私は切腹しなければならない」とおっしゃっていた。最近では「政治や行政に関わったのは生涯の痛恨事」とまで言われた。

一九九一年の大綱化によって、大学の教養教育が弱体化していることも懸念されていた。リベラルアーツのリベラルとは、フリー・フロムで偏見や思い込みから自由ということ、そして文理融合、総合性、この結びつきが大切と説かれた。

一九九五年、中央教育審議会の会長の時に、ゆとり教育を推進された。学習内容の精選と思考力を培う教育を目指されたが、学力低下の批判が起き、数年後には元に戻されてしまった。ゆとり教育で学力が低下したというデータはない。当面必要な勉強をガリガリやっていないと安心出来ない国民性が先生の見識に付いていけなかったのだろう。その時に新設された「総合的学習の時間」は今に高い学習効果を挙げている。

先生は、東大の助教授時代、職員を集めて自主講座を開かれた。高校を出て職員に採用され、「これで勉強から解放されたと喜んでいたら、有馬先生の授業に出ることに。おかげで学ぶ姿勢が身に着いた」とは学芸大の図書館部長を務めた仲野憲一さんの述懐である。職員にも、学生と同じように勉強の機会をつくられ、献身的に教育をされた。 

「物の見えたる光」

俳人として『天為』を主宰され、飯田蛇笏賞などを受賞されている。創作のときに心懸けていることは何でしょうとお尋ねしたことがある。

「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中に言い止むべし。服部土芳の『三冊子』の言葉だがね」とおっしゃった。

「物の見えたる光」――何という凄い言葉だろうか。存在がその秘密を垣間見せた瞬間である。瞬時に消えてしまうから、あやまたず書きとめよと。意識の限りをつくして到達した世界である。

感性も思考も、深まれば深まるほど高度になる。高度なだけに真理の光は瞬間しか感知できない。一生のうち何度も訪れない瞬間かもしれない。有馬―堀江理論もこのようにして生まれたのだろうか。

先生からは、本質的なお話が聞ける幸福をお会いする度に味わった。「物の見えたる光」の高みに到ることが出来るだろうか。少しでもそこに近づくように努めて、先生の学恩に報いたいと思う。

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