温故知新―報徳思想で現代を考える―(『報徳』2023年4月号巻頭言より)

明治から大正へ――地方改良運動

 今号で一四〇〇号を数える『報徳』は、一九〇二年・明治三十五年、『大日本報徳学友会報』として創刊されました。一二〇年の歴史を連綿として刻んで今日に至っています。まさに感慨無量です。
 江戸時代生まれの報徳思想は、明治維新後も農村で求められ、西郷隆盛はその信奉者になり、富田高慶の『報徳記』を読んで感銘を受けた明治天皇は、全国の知事たちに勧めています。幸田露伴は少年少女向けに『二宮尊徳翁』を書いて広く読まれ、尊徳は国民の間に次第に知られていきます。こうして明治中期から後期にかけて、報徳社の運動は全国の農村に広がっていきました。
 会誌が創刊された明治三十五年は、日露戦争の前夜です。そして明治三十七︱八年の日露戦争に日本は勝利しました。しかし国の財政は破綻寸前になります。財政の強化、国富の増強、国民の掌握が政府の喫緊の課題となりました。国力の涵養を目指して政府は、「地方改良運動」を始めます。
 そこで注目したのが報徳でした。報徳は、村や集落に報徳社を作り、勤労を重んじ、公徳心と自発性をもって村民の生活向上に実績を上げていました。報徳社は、「地方改良運動」のまたとない担い手となります。農民たちの教化、農事改良、勤倹貯蓄、青年の結集などを通じて、報徳は新しい国家形成の財政的・社会的・精神的な基盤つくりに大きく貢献していきます。

手本は二宮金次郎

 「芝刈り縄ない草鞋を作り、親の手を助け弟を世話し、兄弟仲良く孝行尽くす、手本は二宮金次郎」「骨身を惜まず仕事に励み、夜なべすまして手習い読書……」。
 三番まであるこの歌は、一九一一年・明治四十四年、小学唱歌として作られ、尊徳は大人のみならず少年金次郎として、子どもたちにも馴染みの存在になっていきます。
 その頃になると、経済界も尊徳の思想に注目します。『論語と算盤』を書いた渋沢栄一は、尊徳の考え方そのものですし、産業報国・研究創造・質実剛健・温情友愛・報恩感謝の「豊田綱領」は、豊田伊吉・佐吉の親子が報徳から導き出したものでした。
 そして御木本幸吉、安田善次郎、松下幸之助、近年では土光敏夫、稲盛和夫といった人たちが、企業経営や生き方の中核に報徳を取り入れました。
農山漁村更生運動と模範村
 一九二九年・昭和四年、世界的な大恐慌が襲います。その前後の時代、報徳社は「農山漁村経済更生運動」を推進する中心となっています。村々は、報徳の実践によって立ち直りをみせ、「模範村」が各地に生まれました。
 全国の小学校に金次郎像が立てられ始めたのは、丁度この頃からです。負薪読書像は、最近は歩きスマホを推奨してよくないなどと言われますが、学ぶことと働くことの大切さを表現し、地域の人たちが「子どもたちよ、かくあれかし」と願って立てたものでした。
 文部省も内務省も関わってはいません。純粋に地域住民の意志によって立てられたものです。日本人の心の琴線にふれる何かが、二宮金次郎にはあったのでしょう。

「富国安民」が「富国強兵」へ

 『報徳訓』に「人民の勤耕」とあるように、尊徳は天・地・人の徳を勤耕によって掘り起こし、その「無尽蔵」の富を人々と共有する考え方でした。この「富国安民」の考え方を、明治政府は「富国強兵」の政策に組み込みます。
 昭和に入って軍部が台頭します。満州事変、日華事変、そして太平洋戦争になると、「天皇御真影・教育勅語・二宮金次郎像」の三点セットは、「欲しがりません、勝つまでは」の戦争遂行の道具にまでされてしまいました。
 国家は、報徳をそのように利用しましたが、報徳社では、戦中から戦後にかけて、深刻な食料難に対して「食料増産運動」を展開しました。
 甘藷、稲、麦の増収を目指す品種改良、技術開発、農事改良が盛んに行われ、品評会を開いてはその向上に努めています。
「尊徳はリンカーンに比すべき民主主義者」
 敗戦と同時に、GHQの新聞課長インボーデンは、戦時中の報徳の果たした役割を熟知して、大日本報徳社に乗りこんで来ました。対応した河井弥八社長は、インボーデン少佐に報徳思想を洵々と説きます。
 報徳思想の本質を知ってインボーデンは、「尊徳は、リンカーン、ワシントンに比すべき民主主義者である。協同組合の創始者でもある。日本の民主主義の発展に尊徳は不可欠な人物」と高く評価するに至ります。
 戦前の苦い経験から、河井社長は「民主報徳」を掲げました。以後、報徳社は国家とは距離を持ち、国家に尽くすのではなく、社会に貢献する「民主報徳」として出発しました。
 その後、日本は素晴らしい立ち直りをみせましたが、戦後の目覚ましい復興も、そして一九六〇年代に始まる高度経済成長も、それを支えたのは、戦前から続いた二宮金次郎的な精神であったように思います。

「勤・倹・譲」から「消費は美徳」へ

 しかし経済が発展し、「消費は美徳」というような豊かな時代になると、「勤・倹・譲」の報徳は古いと省みられなくなり、金次郎像も同じ運命をたどります。
 向都離村によって都会に集まった若者たちは、自由恋愛でニューファミリーをつくります。個人の解放、個性の開花という点で、戦後民主主義の大きな達成といえるでしょう。
 しかし、古いものや共同体的なものは、封建的と排除され、父母の世代、祖父母の世代の知恵や伝統が継承されなくなりました。そこに競争原理が入り込み、人々の紐帯は次第に解体されていきます。
 一九七〇年代以降、豊かさと便利さを追求する消費生活中心の生き方の中で、今までの日本には見られなかった、不登校、学級崩壊、深刻ないじめ、子供の自殺などの問題が噴出し始めました。
 個人主義は利己主義に変質し、個別化、孤立化、密室化が進みます。市民としてどう生きたらいいのか。あらためて人間形成の在り方が問われ、時代を切り開く生き方、価値観の確立が求められる時代に入っています。

至誠・勤労・分度・推譲を「市民道」の中核に

 日本アフラック創業者の大竹美喜さんとの対話は大きな啓示でした。「日本にはかつて武士道があって、人々に一つの規範を与えていた。しかし戦後はそうした基軸が無くなってしまった。今さら武士道といっても始まらない。市民として生きる理念のようなものが必要ではないかと思っている」。
 そう言われた大竹さんに、報徳の四大綱領をお話すると、「私が探していた市民として生きる道として、ぴったりだと思う」といわれ、「至誠・勤労・分度・推譲こそ、武士道ならぬ市民道の中核に置かれるべきもの」と言われました。
 貴重な問題提起です。現在、日本も世界も、根源からその在り方が問われる時代に入っています。「万象具徳」「以徳報徳」「積小為大」「一円融合」の考え方、そして「天道と人道」「道徳と経済」「新田と心田」の二項対立の中に中庸を見出す思考など、日々の生活を考え、律して行く上でも、世界や日本の情勢を考える上でも、有力な思考と実践の在り方を提供していると思います。

ドイツのメルケル首相と一円融合

 現実社会で起きている問題を「報徳の観点」から見ることは重要です。ロシア・ウクライナ戦争が深刻化し、侵略したロシアの非を誰しも思います。しかし「一円融合」の観点から見ると、様々な問題が浮かび上がってきます。
 今世紀初頭、アメリカとロシアは蜜月でした。しかし、アメリカがウクライナ、ジョージアのNATO加盟を提案したことが転機になります。独仏が反対して棚上げになりますが、国境を接するバルト三国の加盟まで容認していたプーチンに不信と怒りを呼び起こします。
 二度の大戦の原因となったドイツは、加害者になってはいけないという姿勢で常に外交を展開しており、メルケル首相はロシアとの友好関係に腐心していました。対立するものをも円の中に入れて、お互いに共通点を見出す努力を続けて来ました。まさに一円融合の実践です。
 メルケル退陣と共に戦争が始まりました。戦争は憎しみの連鎖を生み、終結点も不明です。戦争になってメルケル首相の甘さが批判されていますが、それは違うでしょう。戦争にならなければ、一千万近い避難民はなく、数十万の戦死者は今元気に生きています。
 どんな場合も円に入れて考える。決して敵をつくらない。尊徳の教えは、まさに現代においてこそ実践さるべき生きた思想なのです。

 温故知新――故きを温め、新しきを知る。時代の課題と真正面から格闘してきた報徳の歴史をたどってみました。深い記憶は、それだけ確実に新しい未来を照らします。
 現在、私たちの民主主義も新しい段階を迎えています。それは、個性の解放という戦後民主主義の大きな成果の上に、人と人との新しい結びつきをどう創っていくのかという連帯と絆の民主主義の構築です。報徳思想の真髄と実績をそこにどのように生かしていくかが大切だと思います。

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