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『永遠平和のために』―カント生誕300年に寄せて―(『報徳』2024年7月号巻頭言より)

デカンショ節

 「デカンショ・デカンショで半年暮らす、ヨイヨイ。後の半年ゃ寝て暮らす、ヨイヨイ・デカンショ」。戦前、旧制高校の寮生たちが、車座になってよく歌った『デカンショ節』である。
 「デカンショ」は、デカルト、カント、ショーペンハウアーらの哲学者を指すという。往時の学生たちは、これらの哲学書を読んで、自分の人生を模索した。
 この伝統を色濃く残した寮が、戦後十数年経ってまだ残っていて、そこで2年間、6人1部屋の生活をしたことがある。4か月ごとに入れ替わったので、いろいろな友人ができた。
 理科生なのに、トルストイの『戦争と平和』を読んでいる人、マルクスの『資本論』にアタックしている人、マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』に夢中になっている人と様々で、刺激されてデ・カン・ショのそれぞれ『方法序説』も『純粋理性批判』も『意志と表象としての世界』も手にしてみた。
 情けないことにどれも50ページぐらいで挫折したが、しかし本の醸し出す雰囲気は、この歳になってもどこかに残っていて、懐かしい感情と疼きが甦ってくる。

哲学は学べない、哲学することを学べ

 今年はカント生誕300年である。カントといえば、「天上に輝く星々と我が内なる道徳律」という言葉がよく知られている。その一致を理想とし、「汝の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と要請した。
 人間の主体性の確立と、あるべき人の姿を求めて、道徳と倫理を説いた哲学者という印象が強い。しかし久しぶりにカントの著作を手にして、そんな印象が変わった。
 『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』は、カントの三大批判書といわれる。どれを開いても、難解で読みずらく、すぐにねを上げるのだが、こういう本を読むとき、私たちはどうしても、その思想体系を知ろうとする。
 しかしカントはこれらの著作でそんなことは論じていなかった。何が書かれているのか。世界の本質に迫っていく、迫り方を研究しているのである。そう気がつくと、少しは読み解き易くなる。「哲学は学べない、ただ哲学することを学べるだけ」とカントが言ったのはこのことだった。
 世界とどう対峙し、世界にどう参入していくか。まず様々な現象を感性で受け止める。経験として蓄える。理性で検討する。そこに悟性も入ってくる。そんな、現実に迫る、迫り方を研究したのが『純粋理性批判』なのである。
 しかし理性で現実を統括しても、世界の本質は見えてこない。「物自体」には到達しない。そのために純粋理性は実践理性にならなければならない。対象に向かって、いかに実践的にアプローチするのか。『実践理性批判』では現実に迫る意志と自由の実践理性を研究している。そうして初めて世界は、その姿を垣間見せるのである。
 カントは現実と格闘する、実践的な哲学者だと知った。

「純粋理性」から「実践理性」へ

 「天地の経文を読み解く」から「至誠と実行」へ
 感性・悟性・理性の関係、経験や反省の在り方、その相互依存と相互浸透を明らかにするカントの研究を読むと、現在の私たちの認識の在り方について、考え込まされる。
 知識や情報は、沢山もっている。しかし狭い枠組みで、世界を捉えているのではないか。当面の必要、関心範囲からしか、読み解いていないのではないか。もっと広い土壌に立って、世界を捉えなければならないのではないか、と。
 子供たちを見ても、学校や塾の勉強だけである。夕暮れまで遊びまわり、農作業から風呂焚きまで、手伝うことの沢山あった時代には、感性全開で活発に動き、体験的に多く学び、経験則という知恵を得た。世界と豊かに対話し、感性・悟性・理性がフル回転していた。
 二宮尊徳は「天地の経文を読み解く」ことを言う。天と地の在り方を、誠実に全面的に読み解き、そこで得た真理を実践せよと「至誠と実行」を説いた。
 実はカントも尊徳と同じである。『純粋理性』で因果律の世界を読み解き、『実践理性』を通じて自由と意志による世界の獲得をめざした。なかんずく現実に迫る方法に焦点を当て、その迫り方を全面的に研究したのである。この豊かさを私たちは身に着けるべきだろう。

 真・善・美の追求
 『判断力批判』があるが、これは美や崇高の研究である。昔から「真・善・美の追求」ということが言われた。カントは三大批判書で、まさにこの「真・善・美」を追求し、人格の完成をめざしたのである。
 「真・善・美の追求」などという言葉は、現在では死語に近い。しかし混沌とした現代、真実とは何か、善き振る舞いと何か、美しい在り方とは何かが、まさに切実に問われている。カントは現代の哲学者なのだ。
 そんな眼差しでカントを見ると、私たちに思索と実践を促すぴったりの著作があった。『永遠平和のために』である。

『永遠平和のために──一つの哲学的考察──』

 ウクライナ・ロシア戦争、パレスチナ・イスラエル戦争と、世界は地獄の釜が開いた様相を呈している。実はカントの時代も、戦争続きだった。そんな過酷な現実の中で、1795年、この『永遠平和のために』は書かれた。
 二章で構成されている。第1章は「国と国とがどのようにして永遠の平和を生み出すか」。第2章は「国家間の永遠平和のためにとりわけ必要なこと」である。
 一読して感銘を受けたのは、君主制でも貴族制でもなく、共和主義的な考え方こそがやがて実現していくという、人類史への揺るがぬ確信である。
 「国家は所有物でも財産でもない。国家は一つの人間社会であって、みずからで支配し、みずからで運営する。みずからが幹であり、みずからの根をもっている」
 「いかなる国も、よその国の体制や政治に、武力でもって干渉してはならない」
 「殺したり、殺されたりするための用に人をあてるのは、人間を単なる機械あるいは道具として他人(国家)の手にゆだねることであって、人格にもとずく人間性の権利と一致しない」

共和主義

 民主主義を標榜しても、そこから独裁への道が開かれていくことが往々にしてある。カントは民主主義より、共和主義を主張した。対立するものを円に入れて一致点を模索する、尊徳の「一円融合」の思想と極めて近い。
 「平和というのは、すべての敵意が終わった状態をさしている」
 「国の軍隊を、共通の敵でもないべつの国を攻撃するため、他の国に貸すなどということはあってはならない」
 最大の安全保障は、敵を作らないことである。「敵基地攻撃」などと言う政治家の愚かさが浮びあがる。日本とは関係のない、アメリカの二十年に渡るアフガン戦争に、集団的自衛権によって出動した我が国の愚かさも、浮かび上がってくる。幸い自衛隊員に不幸はなかったが、協力したドイツやイタリアは数十名の戦死者をだしている。

常備軍の廃止

 「殲滅戦にあっては、交戦国がともに殲滅され、それとともにすべての正義も消滅するから、永遠平和はようやく巨大な墓地の上に実現する。だからこそ、このような戦争は、戦争に導く手段のもろもろともに、いっさい許されてはならない。」
 まさにウクライナ・ロシア戦争、パレスチナ・イスラエル戦争が語られている。即時停戦と因果の公正な解明以外、道はない。
 「常備軍はいずれ、いっさい廃止されるべきである」
 当時としては破天荒ともいえる提案だったろう。
 現在、常備軍を廃止した国がある。コスタリカである。紛争の絶えない中南米の真ん中にあるのに、コスタリカは軍隊を廃止した。「軍隊がないから平和」「平和への努力を払っている国に攻めて来る国はない」と国民は確信している。カントから300年。歴史は確実に前進している。
 日本もそのはずだった。しかし最近は武器輸出国となり、その特需を狙うまでに堕落した。

国際連合

 この著作でカントは、国際連合を提起している。「戦争を起こさないための国家連合こそ、国家の自由とも一致する唯一の法的状態である」
 当時は夢物語だった。しかしカントは、その客観的可能性をしっかり見据えていた。国際連合の不十分さがいろいろ言われるが、歴史の発展過程はジグザクである。荒唐無稽ともいえるカントの提言が、300年後に実現を見た歴史の事実は重い。
 カントは断言する、「永遠の平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」。

 カントはこの著作の冒頭で、とあるオランダの宿屋の看板に「永遠平和のために」とあったが、横に墓地の絵が描かれていた、と語り始める。「永遠平和のために」は、実は本来、永遠の安らぎを意味する墓場の言葉なのである。
 カント独特の機知に富んだ書き出しというべきか。ブラックユーモアと解すべきか。真剣に永遠の平和を追求しないと、本当に墓地の永遠の平和になってしまう──千金の重みがあるカントの警告である。

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