見出し画像

石川嘉延回想録『地方自治と半世紀』を読む(『報徳』2024年3月号巻頭言より)

一九九三年・平成五年から二〇〇九年・平成二十一まで、十六年間に渡って静岡県知事を務められた石川嘉延さんが、回想録『地方自治と半世紀』を上梓された。
 口絵の写真集の中の一枚に、知事退任の日、職員や市民に見送られて県庁を去る写真がある。その垂れ幕に「私たちは忘れません あなたの優しさを‼」とあった。
 石川さんを送る言葉として、これ程ふさわしい言葉はない。感じ入って、しばし見入った。

 石川さんは掛川近郊の佐束村に生まれた。お父さんが台湾の製糖会社に勤めていたので台中で育っている。五歳のとき終戦で帰国。野山を駆け巡るわんぱく少年として育った。佐束小学校から城東中学校に進まれた。
 石川さんが中学三年生の時、隣村の土方小学校から私は一年に入った。石川さんが運動場で颯爽と仲間たちとバレーボールをしている姿が今も眼前に鮮やかによみがえる。
 英語の県の弁論大会で優勝され、誇りに思ったものである。学芸会では、殿様役を演じて、間抜けな家来に「お前みたいな者をクルクルパーというのじゃ」と当時の流行語を使って叱り、会場が爆笑につつまれた。
 石川さんは東京大学に進まれた。帰郷されると、お宅に伺っては勉強の仕方を教えていただいた。化学の参考書は培風館の『化学精義』が良かったなど具体的に教えて下さった。石川さんに続いて東大に入れたのは、石川さんの行き届いた指導なくしてはありえない。

県政の業績 八つの柱

 石川さんが自治省に入られたのは一九六四年・昭和三十九年である。東京オリンピックの年に当たり、池田内閣は所得倍増計画を掲げ、オリンピック景気に沸く高度経済成長の只中であった。
 入省すると地方行政の研修のために各県へ出向する。三重県や千葉県に出向されている。高度経済成長は、大きな希望と果実を国民にもたらしていた。しかしその恩恵は大都市圏に限られ、田舎では人口流出による地域社会の先細りが始まっていた。田舎に育っただけに石川さんは、「日本の均衡発展に自分がどう関わるか」という強い問題意識が生れたという。
 高度経済成長のひずみは、ついで大気汚染や水質汚濁として露呈し始めた。千葉県への出向は公害対策で、初代の公害対策課長を務めている。臨海地帯の工場公害や内陸部の畜産公害に取り組まれた。
 静岡県庁への初赴任は、学事文書課長として一九七五年・昭和五十年四月である。その後、時を置いては、財務課長、教育次長、総務部長と務められた。その実績、県政へ想い、そして石川さんの人柄は、衆目の一致するところ、県知事へと押し上げていった。一九九三年・平成五年、静岡県知事に選ばれる。
 『回想録』の「県政を担う」は、①地方分権と市町村再編 ②新公共経営 ③地震対策 ④ファルマバレー ⑤大学新設 ⑥芸術文化振興の柱 ⑦文化イベント ⑧静岡空港の八項目について、取り組んだ事業が総括されている。
 先端的健康産業の集積地建設、静岡文化芸術大学の創設、演劇オリンピックの開催、静岡県舞台芸術センターの設立、静岡空港と、今に生き生きと発展している石川県政の事績が浮かび上がる。
 現在、私たちは能登半島の地震の惨状に苦しんでいる。石川さんの地震対策を見てみよう。

南海トラフ地震に備えて――「減災」の思想

 石川さんが知事になって二年後に阪神淡路大震災に遭遇する。一階が圧し潰されて無残に残る二階住宅の多さと火災に息をのむ。死者の八割以上が圧死だった。早速、「東海地震の住宅倒壊による死者をゼロにする」ことを掲げて『TOUKAI―0』のプロジェクトを発動させた。
 住宅の耐震性向上、耐震性の高い建物の建設を目指し、無料の耐震診断、工事補助金を整備し、県内一三八万戸の耐震率を八割以上に引き上げている。耐震建築物の公的支援は全国に先駆け、国の耐震水準の引き上げにも大きく貢献した。
 雲仙普賢岳の火砕流のときに、石川さんは国土庁に出向していた。生活再建のための「現金給付」、避難所から仮設住宅に移行後の食事提供の実現、被災者救済の義援金「基金」の設立など、その時の対策経験を反映させて、行政の救済制度から「基金」の活用まで、生活の襞にまで届く、石川さんらしいきめの細かい施策を実現した。
 能登の地震の倒壊の惨状を見ると、初歩的な耐震化の不徹底をまず感ずる。石川さんは、予知、予測に頼らない、発生に備える「減災」の考え方を強調している。いかに被害を最小限に抑えるか。
 現在、耐震新基準で新築補強された住宅、ビル、学校も既に築四〇年を経ている。南海トラフ地震が予測され、富士山噴火の誘発もあるかもしれない。この難題にどう立ち向かうか。「減災」の思想の徹底実践である。石川さんはその強い自覚を私たちに促している。

芸術文化の発信県に

 ギリシャのアテネで、第一回のシアター・オリンピックスが開催されたのは一九九九年である。
 この呼びかけ人の一人が、富山県利賀村で「世界演劇祭」などを開催して国際的評価が高い鈴木忠志さんである。清水出身の鈴木さんと石川さんとの出会いが第二回シアーターオリンピックの静岡県招致となり、その後の静岡県舞台芸術センター・SPAC(シズオカ・パフォーミング・アートセンター)の設立となる。
 第一回のアテネ大会当時、私はウィーンにいた。アテネに飛ぶと、視察に来られた石川さん一行と一緒になった。オリンピックの開会式で石川さんの挨拶を聞き、その後皆さんと各地に観劇した。
 アテネのヘロディオン野外音楽堂で見た鈴木忠志演出の『ディオニュソス』、エピダウロスの古代劇場で見たテルゾブロス演出の『アンチゴネー』、デルフォイの野外競技場遺跡で見たハイナー・ミュラー演出の『プロメテウスの解放』など、今でも強く印象に残っている。四年後の静岡開催はどういう形になるのだろうと期待がふくらんだ。
 行政が文化にお金をかけるのは難しかったという。ある文化に偏るという批判、演劇の一本化への危惧、行政スリム化への逆行など、次々批判が出てきた。それを乗り越えられたのは、演劇など少しもわからない文化オンチで、自分の趣味や関心で政策誘導することとは無縁だと思われたからだと、ユーモラスに語っておられる。公平性が鍵になるが、ただ、文化に予算を多く使うドイツと比べて日本はどういうことだろうと思う。

シアター・オリンピックス

 第二回シアター・オリンピックスは、一九九九年四月から二か月間に渡って開催された。日本初の国際舞台芸術祭典である。「希望の貌」をテーマに、鈴木忠志演出の『シラノ・ド・ベルジュラック』を皮切りに、二十か国、四二作品をグランシップ、舞台芸術公園の野外劇場やホール、県内一三市町で公演された。ロバート・ウィルソン、リュビーモフ、ラヴォーダンなどの必見の演劇人が集い、ドイツ演劇関係では、呼びかけ人のハイナー・ミュラーの展示講演会を開くことができた。
 観客は六万人を超えた。「ニッポン」「トウキョー」でなく「シズオカ」がアテネの古代遺跡の舞台会場でも飛び交うようになりたいという夢は、オリンピック後のSPACの公演に東京からバスを連ねて来るようなるなど、全国から注目される活動として定着している。
 今は宮城聡さんが率いておられ、世界最高峰の「アヴィニョン演劇祭」での招聘公演、高校生の演劇アカデミー、「ふじのくに野外芸術フェスタ」など、報徳大講堂の前の広場でもパフォーマンス公演をされる。
 石川さんのオリンピック開会の記者会見で強調された「舞台芸術振興や文化をベースにした地域活力の向上」はしっかりと根づきつつある。

「現代は大競争、大交流、大共生の時代である」

 石川さんの言われたことで、心に残っている言葉がある。高校時代から剣道をされ、宮本武蔵の「観見二目」は心がけの一つという。観ると見る、観るのは本質であり、見るのは現象である。このバランスと本質を直感するセンスの大切さを説かれている。
 「快適空間」ということも言われた。カンファタブルは、日常生活の最重要事である。皆が健やかに暮らせるようにと石川さんらしい呼びかけと感じたが、私に強いアピール力を持ったのは、「現代は大競争、大交流、大共生の時代である」という言葉である。
 厳しい競争も、その中に交流が含まれ、交流は共に生きる共生をはらんでいる。共生の観点から逆に競争を位置づけている風があり、切磋琢磨と向上を大切に思う石川さんらしい、伸びやかな広がりを感じさせる呼びかけである。
 私たちは今、一身にして三様、地域住民・日本国民・世界市民として生きることが求められている。報徳は地域おこしである。石川さんはここに「大交流」を掛け合わせなさいと言っておられるのではないか。石川さんからのメッセージとして私はこれを大切にしている。

実践的思考の精華

 本書を読み始めると、ドキュメンタリータッチのわかりやすい分析に惹きこまれる。それぞれの施策の必然性、歴史的な経緯、構造的な解明と実施――この三者がダイナミックに切り結んで全体像が浮かび上がり、思考を促す様々な課題が提示される。知事選を巡る政治闘争もリアルに描かれている。
 思想はそのままでは現実を動かす力はない。しかし行政の力は、鉄壁の現実でも一センチ二センチと動かすことが出来る。
 本書は、精神力と物質力を媒介する石川さんの強靭な思索力と構想力が、行政においてどのような素晴らしい果実を私たちにもたらしたかの百科全書である。
 これから政治を志す、経営を志す、行政を志す、学問を志す、芸術文化活動を志す皆さんが学ぶべきヒント、満載である。座右の書として、是非、本書と四つに取り組んでいただきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?