核兵器禁止条約の発効に思う(2021年『報徳』3月号 巻頭言)

核兵器は違法になった

二〇二一年一月二十二日、核兵器禁止条約が発効しました。昨年の十月二十四日、ホンジュラスが批准書を国連に提出し、批准国が発効に必要な五十カ国に到達したからです。十二月十一日にはアフリカのペナンが批准書を提出して、批准国は五十一カ国になりました。批准はしていないが賛同している署名国は八十六カ国で、国連加盟国の一九三カ国の七割を占めています。

新しい国際法の誕生です。核兵器の開発、実験、製造、使用、威嚇などが禁止されました。これによって核兵器は違法であることが宣言されたわけです。絵空事の条約との見方もありますが、アメリカが各国に批准撤回を求めたのは、実効性に危機感をいだいたからでしょう。

核保有国は、米・英・仏・ロ・中の五カ国に、イスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮を加えた九カ国です。これらの国々への大きな牽制となります。

賛同しない国は、日本を含め、韓国、オーストラリアの太平洋側の米同盟国と、北大西洋条約機構NATOの三十カ国です。安全保障上の脅威に備えるために抑止力が必要という考えに立ち、核の傘にはいっている国々です。世界平和を未来に向かってどのように構築していくのか、その見識が問われてきています。 

日本人の国民的記憶としての原水爆惨禍

原爆や水爆について私たちは、それぞれに記憶を持ち、それは国民的記憶となっています。原爆で傷を負いながら治療に奔走した永井隆博士の著作を基にした、サトウ・ハチロウ作詞、古関裕而作曲の『長崎の鐘』は、「こよなく晴れた青空を 悲しと思う切なさよ」と鎮魂と生きる意志を歌い、広く親しまれて国民歌謡になりました。博士の『この子を残して』を読んで、「つらいね」と絶句していた母を思い出します。

ビキニ環礁の水爆実験で第五福竜丸が死の灰を浴び、焼津港でマグロの放射能検査をするガイガーカウンターのガーガーと鳴る音がラジオから流れて、怖い思いをしたのは小学校六年の頃だったでしょうか。これを契機に原水爆禁止の運動が起こりました。「故郷の町焼かれ、身寄りの骨埋し、焼け土に、今を白い花咲く、ああ許すまじ原爆を」の歌がよく歌われたのはこの頃でした。

「父を返せ、母を返せ、私につながる人間を返せ」の峠三吉の『原爆詩集』や原民喜の『夏の花』を知ったのは、ずっと後のことですが、広島の街の生き地獄の様子に慄然とさせられました。

このような記憶を私たちは持ち、国民共有の財産となり、それが平和を推進していく大きな力となって、世界に大きなうねりをつくり出してきました。 

ヒロシマ・ナガサキからの長い道のり

しかしその道のりは長いものでした。一九四五年八月の広島へのウラン爆弾、長崎へのプルトニウム爆弾の投下は、二十万人とも三十万人ともいわれる人命を一瞬にして奪い、多くの被爆者を生みました。占領下でしたのでその実情は伏されていましたが、十年程経った一九五四年、アメリカは、ビキニ環礁で原爆の一○○○倍威力を持つ水爆実験を行い、マーシャル群島島民と太平洋で漁をしていた一○○○隻の日本漁船は、死の灰を浴び、第五福竜丸では死者が出ました。

このことが契機となり原水爆禁止の運動が澎湃と起こり「原水爆禁止日本協議会」の活動が始まり、「ラッセル・アインシュタイン宣言」は、世界に向かい核兵器による人類の危機を訴えました。その後の一九六〇年代、部分核停条約、核不拡散条約が出来ましたが、実効はありませんでした。

それでも核戦争阻止、核兵器廃絶、被爆者援護の運動は毎年積み重ねられ、こうした動きは一九七〇年代の国連軍縮総会に結実していきます。おりしもパーシングⅡ型ミサイルのヨーロッパ配備をめぐり、アメリカ、ヨーロッパで反核・平和運動が起こり、ロンドンで二五万人、ローマで二十万人、ボンで三十万人など、広範な市民が立ち上がりました。この動きは深く広がり、非核・平和自治体宣言などに定着し、核兵器廃絶への底力となっていきました。

二十一世紀に入り、二〇〇七年には、アメリカの核戦略を担ったキッシンジャーたち国務長官や国防長官を務めた四人が、「核兵器なき世界」を目指す論文を発表して世界を驚かせました。二〇〇九年にはオバマ大統領はプラハ演説で「核兵器を使用した唯一の核保有国として核兵器のない世界に向けた具体的措置を取る」と宣言しました。しかしいずれも核抑止の考え方を残し、アメリカ議会での承認が得られないなど、不十分なまま終わりましたが、二〇一六年にはオバマ大統領の広島訪問が実現し、被爆者との対面が果されたのは、まだ記憶に新しいことです。

二〇一〇年代の核廃絶をリードしたのは、「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)でした。核戦争防止国際医師会議を母体としたNGOの国際的連合体で、多くの層の代表を結集し、二〇一七年の国連会議で核兵器禁止条約が採択されるまで、牽引者の役割を果たしました。その実蹟によって同年ノーベル平和賞を受賞しています。 

世界的なコロナ禍に対して、核抑止力は無力

しかしこの核兵器禁止条約に常任理事国五カ国が反対して、国際法に従わないという逆転事態が生まれています。これまで大国がルールを作ってきましたが、多数の小国がルールを作り、見識を示す時代が到来したのです。

「人民の勤耕」が世界を創り上げていくと尊徳は言いましたが、七十年に及ぶ私たち人民の長い「勤耕」の成果が、核兵器禁止条約と言えるでしょう。

核抑止の考え方に立ち、人類が核兵器と永遠に共存可能であるとするならば、抑止状態が常に安定性を保っていることが必須となります。しかしこの均衡を安定的に永久に保つことは可能なのでしょうか。実態は、核保有国が人類の運命を人質にとり、そこに指導者の恣意が入る危険が大だということです。

更に重要なことは、現在、世界の重大事件は、こうした核抑止とはまったく無関係に起こっているということです。コロナの感染拡大は、一国の安全保障上の最大危機です。しかし核抑止力は、国民の安全保障に何の役にもたちません。困窮している国民の横にステルス戦闘機が一機あっても何の役に立たないと同じことです。

コロナ禍、環境破壊、気候変動、食糧や資源をめぐる紛争、等々、緊急の問題解決に何の役にもたたない核兵器と抑止力論とは一体何なのでしょうか。一万五千発の核爆弾の上に立った核抑止力論には、やはりどこか危険な虚構があると考えざるを得ません。 

自主自立の平和構築外交を!

日本はこの条約に不参加を表明しています。被爆国でありながら、こういう態度が国際社会で不信を招き、日本のプレゼンスを低く、低く押し下げているのを感じます。

かつて日本が国連の常任理事国になることに賛成する国はフランスのシラク大統領をはじめ、数多くありました。しかし今やアメリカ以外一国もありません。アメリカの票が一票増えるだけの国を誰も支持しないのは当然でしょう。

大局的な戦後歴史の流れからいえば、覇権国として各国に介入し、ベトナム戦争で敗北、イラクを破壊してテロ集団ISをつくり、アフガニスタンで泥沼化しているアメリカと、軍事同盟を結んでいる意味が実際あるのかどうか、考える時が来ているのではないでしょうか。

私たちが望むのは、被爆国として自主性を保ち、アメリカとも中国とも北朝鮮とも、自主自立の立場で渡り合い、世界平和構築をリードする外交を展開することです。

核兵器禁止条約について日本の七十五%の人たちが署名すべきと考えています。自民党支持者でも六十%が署名に賛成しています。こうしたコモンセンスに則った政治と外交こそ、今の日本に求められていると思います。

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