沖縄本土復帰から五〇年(『報徳』6月号巻頭言より)

「本土並み」の実現に向かって

 一九七二年、昭和四十七年に沖縄が日本へ返還されてから、今年で五〇年である。五月十五日、国と沖縄県合同で記念式典が開かれた。岸田文雄首相は基地負担軽減に全力で取り組むと強調し、玉城デニー知事は、沖縄を平和の島にする目標が未だ達成されていないと訴えた。辺野古基地の断念と日米地位協定の見直しの建議書を日米両政府に提出している。
 太平洋戦争で本土の盾となって戦った沖縄では、住民の四人に一人が亡くなっている。伊江島に至っては二人に一人である。洞窟にこもった人たちへの米軍の投降勧告に、思わず飛び出した女生徒を後ろから将校が短銃で撃つ、追いつめられて海岸の岩場を逃げまどう女生徒の群れに米軍の機銃掃射が襲うなど、小学校の時に見た映画『ひめゆりの塔』の場面が今でも生々しく浮かんでくる。
 無条件降伏した日本が、サンフランシスコ講和条約で独立国家として国際社会に復帰したのは、一九五二年・昭和二十七年である。本土の盾となった沖縄は、しかし、日本の独立と引き換えに米軍に差しだされ、アメリカの施政下に置かれた。それから二十年に渡るアメリカの圧政に苦しんだ後の返還だったが、それから五十年経った現在なお、沖縄には広大な米軍基地が残り、それが経済的自立を阻害し、事件や事故に不当に苦しみ、所得は本土の七割で、当初の公約であった「本土並み復帰」は実現していない。
 沖縄問題は私たちの胸に刺さった棘であり、同時に今日の問題を様々に考える砥石の役割も果たしている。

我々を平和産業に就職を

 返還された一九七二年は、ベトナム戦争の最中であった。祖国復帰の運動は、ベトナム反戦運動と重なった。「固き土を破りて、民族の怒りに燃える島、沖縄よ。我らと我らの祖先が血と汗をもて、築き上げたる沖縄よ…」と歌われ、日本への「即時・無条件・全面返還」がスローガンとなっていた。
 沖縄全軍労は、そのスローガンに「我々を平和産業に就職させろ」をつけ加えた。この言葉に胸を突かれた。全沖縄軍労働組合連合会は、米軍基地に働く二万人の人たちを結集し、低賃金で酷使されている状態の改善に奮闘していたが、基地からは連日ベトナム爆撃にB52が飛び立ち、戦車の掃除をすると、ベトナムの人たちの手や足が出て来る。基地で働くことは即侵略に加担することで、選択の余地のない厳しい矛盾の中にいた。「平和産業に就職させろ」は沖縄の魂の叫びといえた。

国土の一%に満たない沖縄に全米軍基地の七〇%が集中

 世界一危ないといわれる普天間基地の返還は、しかし代わりに辺野古に新たに基地を作ることで日米合意がされた。日本の国土の〇・六%の沖縄に全国米軍基地面積の七三・八%が集中している沖縄の意向は、全く顧慮されなかった。
 二〇一四年、仲井眞弘多知事は県外移設の公約をひるがえし、辺野古基地建設を受け入れることを表明した。仲井眞の選挙参謀だった翁長雄志は承服できず、知事選に立候補する。那覇市長を四期、自民党沖縄県連の幹事長を務めた保守政界の重鎮は、イデオロギーよりアイデンティテーを掲げて革新勢力と組んで国家権力と対峙した。
 これには伏線があった。二〇〇七年、第一次安倍晋三内閣は、高校で使う日本史の教科書の検定において、沖縄戦の「集団自決」について「日本軍の強制」部分を軒並み削除しようとした。決死で戦う沖縄の人々に対して、日本軍が言葉が違うからスパイとしたり、足手まといだから手榴弾を渡したり、集団自決に至った嘘偽りのない歴史を無視される危機感から、沖縄では十万人が決起し、翁長は事実は曲げられないと反対運動の先頭に立った。
 サンフランシスコ講和条約が発効した四月二十八日は、沖縄にとってはアメリカに人身御供にされた屈辱の日である。二〇一三年、安倍政権は「主権回復の日」として、国会議員、三権の長、天皇・皇后も招いて記念式典を開き、「天皇陛下万歳」を三唱して祝った。翁長は、このような人たちに沖縄を任せるのは恐ろしいと感じた、という。
 沖縄返還交渉で佐藤栄作首相は「核抜き、本土並み」に腐心した。強硬なアメリカに緊急時の核持ちこみを密約せざるを得なかったが、その文書は自宅に保管したままで、歴代内閣には継承されなかったといわれる。橋本龍太郎、小渕恵三、野中広務、梶山静六、山中貞則、後藤田正晴など、沖縄に深く心を寄せる人が自民党には多くいた。しかし安部首相、菅義偉官房長官は、辺野古基地建設を問答無用で押し通すだけだった。変ったのは翁長ではなく政権党なのである。
 翁長の決起集会での菅原文太の応援演説は、熱い共感を呼んだ。「政治の役割は二つあります。一つは国民を飢えさせず安全な食を保障すること、もう一つは絶対に戦争をしないこと。沖縄の風土も、本土の風土も、海も山も空気も風も、すべて国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです。辺野古も然り。勝手に他国に売り渡さないでくれ!」
 高倉健と並んで任侠映画の黄金時代を牽引した菅原文太は、自由民権運動に関心が深く、大河ドラマ『獅子の時代』では、民権運動家になった元会津藩士を演じ、「自由自治元年」の旗を掲げて鎮台兵に向かっていく姿が鮮烈である。ガンと闘病中の演説で、その三週間後に亡くなっている。翁長は十万票の差をつけて勝利した。
 

摩文仁の丘にて

 翌年の二〇一五年は、戦後七十年だった。掛川では遺族会が沖縄戦の終わった六月二十三日に合わせて、慰霊の旅を企画した。海上献花をし、摩文仁の丘の戦没者廟で、藤野憲夫、溝口安一の霊に手を合わせた。
 藤野憲夫は掛川の旧土方村の出身で、鉄血勤皇隊を率いた沖縄一中の校長であり、溝口安一は私の小学校時代の同級生・溝口健次郎の父である。当時、クラスの一割は戦死して父がいなかった。
 藤野が掛川から沖縄に赴任したのは、後に本社社長を務める河井弥八の勧めによる。『昭和初期の天皇と宮中 侍従
 次長 河井弥八日記』を読むと、昭和四年六月二十七日、「夜、藤野憲夫氏来訪す。病気全快し、沖縄県師範学校へ奉職すべしという」とある。藤野は暖かい沖縄に赴任して、夫人と共に充実した教員生活を送っていた。そして沖縄戦を迎える。
 掛川からの訪問と聞いて、平和祈念館館長だった島袋淑子は、高齢を押してお話し下さった。「ひめゆり隊」の隊員だった島袋は、沖縄師範女子部で教えていた藤野校長夫人・ふぢゑ先生の教え子だった。戦場で島袋は、軍との連絡に行く校長と出会う。校長はその帰路、機関銃弾を左太ももに受けた。壕に担ぎ込まれた校長を島袋は必死に看病し、看取ることになった。十五日に被弾し、十八日に亡くなり、二十三日に沖縄戦は終わった。
 藤野校長は、皇室への尊崇の念が深く、教え子たちは頭を東にして葬った。皇国史観で有名な東大教授・平泉澄と藤野は親しく、平泉は友の死を悼んで「生徒を率いて善戦し、刀折れ、矢尽きてもなお屈せず、遂に壮烈なる戦死を遂げたという報道は、新聞にラジオに一斉に発表せられた。二十年の旧友として私は泣いて之を聞く外はなかったのである」と偲んでいる。
 

国民の願いと国家と

 ふぢゑ先生は、沖縄戦の一年前に本土帰還を命じられて娘と掛川にもどった。磐田の見附女学校で同級だった私の母に先生はよく、「藤野と一緒に沖縄に残っていたかった」と語っていた。「ひめゆり隊」は沖縄師範女子部と沖縄高女で構成されていたから、沖縄高女でも教えていたふぢゑ先生は、残っていたらひめゆり隊の引率者になっていただろう。
 先生はよく我が家に来られた。或るとき祭日で国旗を掲げていると、「私は日ノ丸を見ると引き裂きたくなるの」とつぶやかれた。物静かな先生の激烈な言葉に仰天した。母に告げると「そりゃそうよ。大切なご主人を国に取られたのだから」と言った。
 沖縄の問題を考えると、どうしても国家の問題に行き着く。国家とは一体何だろうか。単に社会の利害を調整する機関にすぎないと思うのだが、権力者たちは国家に神聖な意味を与えようとする。国家は戦争を発動し、国家のために死ぬことも要請する。しかし国家を散文的に眺めれば、かつての薩・長・土・肥、そして軍部、最近また国家の私物化がいわれているように、一部勢力の利益貫徹の機関なのではないか、という疑念はぬぐいきれない。
 敵基地攻撃の必要が言われている。犠牲になるのは相手国の国民と自国民で、権力者も政治家も無傷で責任も問われない。翁長雄志のいうように「日本という民主主義国家は品格ある成熟したものになっていない」のである。
 かつて、アメリカのアイゼンハワー大統領は、退任演説で、アメリカに軍産学融合体が出来つつあると警告した。軍人として名高い大統領がこう語るアメリカ民主主義の凄さにも驚くが、アイゼンハワーは、この融合体が一度出来ると、武器消費を要求し続けることになることに、大きな懸念を抱いていた。三〇年後、イラク戦争、アフガン戦争で改めてこの指摘がなされた。「平和産業に就職させろ」は、今日的課題でもあるのだ。
 国家の安全保障ではなく、企業・融合体の利益保全でもなく、人間の安全保障をどうするのか。政治・経済・文化・国際関係のあらゆる面において、従来の在り方、考え方を転換し、人間の安全保障をどうするのか、熟考し創造していく新しい段階に今こそ来ているのではないだろうか。

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