ありふれてて不自由な「デザイン」という作業

「デザイン」に関わる仕事をしているなんて言うと、何やらクリエイティブでカッコいいイメージを持たれがち。私も一応「デザイン」的な作業をするし、今まで幾人かのデザイナーさんを見てきたが、そんな特別な仕事とは思わない。デザインを専門に学んだことはないが、そんな私が考えるデザインの話。


世界はデザインに溢れている

私たちの身の回りの全てのものは、何かしらのデザインがなされている。それがアーティスティックであるかは関係ない。ものをどんな形態で存在させるかを考えることがデザインなのだから。そう考えると、デザイナーと呼ばれる仕事をしていない人でも、日常的にデザインしていると言える。書類の体裁をどうするかを考えることもデザインであるし、料理の盛りつけだってデザインだ。

「創造性を発揮する」という意味で言うと、どんな作業であってもそれと無縁ではない。工夫すること、より良くすることは創造性によってなされる。生きてる人全てが、クリエイティブな作業をしていると言えるのだ。


DTPにおけるデザイン

私が日々接するデザインは、主にDTP(PCで印刷物を作る)の現場でのそれである。広告やポスター、看板の意匠を創ること。そこにはまずクライアントが誰かに伝えたいことがあり、それをより良く伝えるためにデザインがなされる。

商業デザインは、その目的と評価がはっきりしている作業だ。いくら素晴らしい意匠でも、クライアントの意図を反映していないものには価値がない。技術の優劣に関係なく、クライアントの伝えたいことを適切に伝えられるものが優れたデザインと言える。


デザインの不自由さ

デザインという作業は、その人の個性を発揮しやすいものだ。同じテーマでも、人によって出来上がるものはそれぞれ違う。仕事としてのデザインであっても、程度の違いはあれ自己表現の余地がある。

誤解されがちなのが、「自己表現=自由」ではないということ。無目的に落書きしているような場合以外は、商業デザインも自己表現のためのアーティスティックなデザインも、いろいろな制約の中での作業となる。それがクライアントからの要望なのか、自分自身の中のテーマを適切に表現するということなのか、その目的によって変わってくる。同僚に美大出身者がいるが、彼女は「創作活動が全く自由だと思ったことは一度もない」と言っていた。


デザインに必要な思考力

同じ技術を持ったデザイナーでも制作物に優劣が出るのは、目的の把握とそれに合った表現を選択できるかどうかの違いだ。そこには美術的センスの前にある「言語的分析力」「コミュニケーション能力」に負うところが大きいと思われる。

地元には「工芸高校」というデザインや美術を教える公立高校がある。それとは別に県内随一の進学校に美術コースができたらしいという話を聞いた(本当にできたのか、今もあるのかは知らん)。工芸高校出身者とその話をしていたとき、彼女は「進学校は勉強だけしてればいい」と言っていたが、ではデザインや美術をする人が勉強できなくていいの〜?と思った。頭が良くないと、優れた芸術作品やデザインはできないのでは?

職人的訓練ももちろん大切だけど、何をどう表現するかを論理的に考えられない人に、ものは創れないと思う。頭の善し悪しが関係ないのは、一部の天才だけ。


デザインを学ぶ日々

いろいろごちゃごちゃ言ったが、職場では「デザイン」に苦しんでいる。クライアントは何を一番伝えたいのか、それをどう表現したら見る人に伝わるのか、イメージ通りのデザインをする技術が足りん…等々。

そこまで高いデザイン性やオリジナリティが求められる職場ではないので、世の中にあるいろんな印刷物をお手本にデザインをひねり出す日々。何でも勉強というのは、初めは模倣からだ。真似しようにも技術力が足りない場合もあるが、またそこから勉強して技術を身につける。

私は技術力のなさをカバーするために、アイデアで勝負してしまうタイプ。 同僚からは「インパクトのあるデザインが得意だね、男性のデザインみたい」と言われる。…女子力ないもんでね…。繊細で上品なデザインもできるようになりたいね〜。それには修行あるのみだね。

私の文章に少しでも「面白さ」「興味深さ」を感じていただけたら嬉しいです。