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啄み

団子虫を殺したことがあります。今から私の足元の側を蠕動するこの愛らしい弱き生物を踏み潰すのだと思ったら、酷い高揚感に包まれました。好奇心を逆撫でられました。片脚を上げました。永遠とも思えるほどのその刹那、自身の躊躇いを幾度も察しました。コンクリートに焦茶色の染みが出来ました。蟻を殺した時よりも深い罪悪感を感じました。何も変わった事は起きませんでした。団子虫が粘着質の死骸に成りました。靴裏が汚れました。私は自身が極悪人に成った様な気がしました。慄然としました。
その日を境に私は地獄の存在を信じるようになりました。3歳の頃だと記憶しております。

車窓から景色を眺めたことがあります。その日初めて私は景色というものを拝見しました。黄昏は恐ろしい程に美しく、平凡な住宅街が、煌びやかな斜陽に当てられ、突如、不可思議な黄金の街へと変貌したのでした。漠然としていました。なんだか懐かしくなり、涙が溢れました。
その日を境に私は苦悩は有るべくしてあるのだと信じるようになりました。幸福になる為の犠牲は不幸になることであると知りました。

群衆に紛れ込んだことがあります。不可解な事が同時に何度も起こっていました。全員が孤独の様でした。皆、悲しい筈なのに笑顔でした。皆、不幸な筈なのに幸福だと偽りました。そうして私はその中で一番の孤独を感じました。言い知らぬ焦燥と不安が私の背にのしかかりました。
その日を境に私は人間の本当の可愛らしさを理解するようになりました。人生は永く大義であります。

恋をしたことがあります。その人は悲しい人でした、ですので美しい人でした。私は幸福になりました。その人の梅の如き絢爛たる微笑みは私の衰弱を霞めました。孤独だけが人間の愛すべき本質でないことを知りました。人生は恋のためには酷く短いものだと気付きました。何がさて、安寧がありました。

けれどもその人の瞳を見た時、初めて自分が罪人であることの引け目を感じました。地獄の存在を思い出しました。紐解いてゆけばとどのつまり孤独でありました。美しいものは何物にも触れられないのだと知りました。幸福、不幸という観念は資本主義経済と似ているのだと知りました。私はその人に会ったことに後悔しました。安寧はたかが暫時存在するだけなのでした。 

人生はやはり永く大義であります。

私はあの日団子虫を踏み潰したことを後悔しております。

しかし、人生は恋のためには酷く短いものであるということについては真理である様です。

私は次の幸福のために禍々しい日々の絶望に向き合っているのです。

それだけなのです。



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