障害は「個性」なのか?

 相方がイングルーシブ教育と障害に関わる映画を紹介していたので、思ったことを書く。
 障害者の権利条約、という国際条約がある。現在まで諸国家の障害者政策の大元となっている包括的に障害について扱った条約だが、特に画期的なのは障害をある種の「個性」と捉えた上で、障害を理由とした差別を禁止したことだ。この差別には、就業における差別から、日常生活における移動などまで含む。当然一部の障害は移動を困難にするが、それを解決する責任は当人にはなく、社会にある。「個性」に責任は付属しない、という理屈だ。
 その条約の中で、イングルーシブ教育はかなり理想化されている。今までのような障害者用の学級や学校ではなく、「みんな」と同じ授業に参加する障壁を全て無くした上で参加する。平等の観点から見ると、確かに理想的だ。
 しかし、他でもない一部の障害者のNGOが、このイングルーシブ教育の普遍化に猛反対したことを述べねばならない。具体的に言うと、聴覚障害者並びに視覚障害者だ。
 彼らは、これらの障害者もイングルーシブ教育に参加しなければならないなら、それは差別であり不平等だという。彼らが現在「みんな」と同じ授業に参加する障壁を無くす手段が存在しないからだ。
 この主張には、障害を個性として扱うことに関する問題が示唆されている。障害を個性としてみる事は、障害者の社会参加に関する不平等を理念的に不当なものとしたことに貢献し、現在の障害者政策の基本ともなっている。理想的には障害者にとって望ましい社会がいずれ実現されるはずだ。
 しかし、それは今ではなく、おそらく直近の未来でもないだろう。未だに障害者には多くの社会参加への「障害」がある。さて、この状況で障害を個性として扱ったら、どのように思われるだろうか。
 実際に障害によって多くの不利益を被る人たちが未だに数多く存在する。上記の思想はこれらの不利益を取り除くためのものだ。社会がその不利益を取り除かねばならない理由付けとして、障害を個性として「肯定」した。しかし実際に不利益を感じる当人達にとって障害は肯定できるものだろうか。
 現在障害を個性として肯定する風潮は高まっている。一面では望ましい道ではあるが、実際に障害の不利益が取り除かれない限り障害は決して個性にはなり得ない。社会において障害を個性として扱う前提条件が整っていないのに民間において障害を個性として扱った場合、現状数多く残っている障害による不利益が覆い隠されかねないのではないだろうか。