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[ゆるぽむ日記]今日、「奇跡の一本松」に会いました。

ここまで何も決めずに家を出たのは、もしかしたら初めてかもしれない。

どこを目指すか、何に乗るのか、どの町に泊まるのか。決めていたのは「東日本大震災で被害があった地域を訪れてみること」。

今回はひとり。週明けに岩手県遠野市に出張に行く予定があるから、土日で行けるところへ。気仙沼、陸前高田、大船渡。名前はわかるけれど、実際に足を運ぶ駅がそれらの地名がついた駅なのかどうかすらわからない。4年以上目をそらし続けてきたと言っていい、自分の被災地への無知に絶望しそうになる。

やることが多いことを言い訳に、その呆れからも少し目をそらして、行き先を決めたのは当日の朝、新幹線に乗りながらだった。交通網だけは事前に調べた。新幹線に乗って北上して、在来線を乗り継いで、休業している電車の代わりに運行されているBRTというバスに乗れば、気仙沼に着く。

新幹線や在来線では、Wi-Fiがあまりよく通じなかった。携帯電話は充電が切れそう。なんかもういいや、と思って、今回の旅もわたしは人に頼ることを中心にすることに決める。

観光案内所のひとたち。ホテルや町のひと、仮設の商店街の店主さんや、東京からのボランティアツアーを主催している人、同じく神奈川県を出発して週末ボランティアに来たのだという、団体の大学生たち。旅初日にして、たくさんの人と話す機会がありました。

みなさんは、被災地に足を運んだことがありますか?

私は5/16の昨日、5/17の今日と、初めて東日本大震災の被災地を訪れています。

今から11年前、中越地震がありました。ちょうど大学受験まっただ中の10月の夜、塾で授業を受けている私たちは、地面が揺れて、揺れが続いて、建物の窓が割れて壁がゆがんで何かが爆発する音を聞きながら、月が光って雲がすぱんとまっすぐに切れて、空が半分になっているみたいな情景を見ていました。その日遅くまで帰れなかったけれど、深夜には家に着いて、それから10日間くらいライフラインが切れたからその間は別の町で暮らしました。たしか当日の夜は車の中で過ごしていたはず。

その比じゃない。

のだと思います。

noteにこの話を書くこともためらって、本当はほかのことを書こうと思って書いたり消したりしていたのだけれど、でもやっぱり今しか書けないむき出しの何かもあるんじゃないかと思って、そしてそれを書く場所は今のわたしにとってはやっぱりここか、と思って、ちょっと書いたりしてみています。

計画通り、気仙沼に行き、そこから陸前高田を通って、大船渡、釜石と移動して、今日は釜石駅という場所で宿泊することにしました。

町については、ひとつだけ。

震災遺構でなく、町を歩いていてふと目に入ってくる目を見張る建物の数々。

「あぁ、この町は海が壊したんだ。」と体が思う瞬間。

海。目の前にひろがるキレイな海。

でも、そのすぐそばに掲げられている「海と生きる 気仙沼」の文字をみて、その芯にわたしは少し泣きそうになってしまった。初日。

「地震に比べればなにもつらくなんかないやね」

「はまらいん〜!」(仲間になりなよ、の意のことば)

「きてくれてありがとう」と目を見つめて話してくれるこの人たちは、ずっとここで暮らしてきたんだ。


今、私はばかみたいに「来てよかった〜」と心から思っているし、「また来よう〜」とも思っています。

今日言えるのはこのくらいまで。

背中を押してくれたのは、もとくらを通して出会ったひとたちや、本。

髪とアタシのミネシンゴさんや、クーリエ・ジャポンの南さん、疾駆の陸前高田号。この3つの要素に、岩手県遠野市という、今私がいる釜石駅から1時間程度の場所にある町を取材する機会があわさって、私はここに来る決心をしたんだと思います。

「どんな顔して行けばいいかわからない」と言ったわたしに、

「野次馬根性で行けばいいんだよ。野次馬がいなくなったら、だめ」
「とにかく行くだけでいいよ。行ったほうがいい」と教えてくれてたひとたち。

「タイミングが3つそろったら人生を動かしてもいいかなと思うようになった」と言ったのは鈴木絵美里さんだったけれど、それを聞いて以後わたしも「3」に影響されてしまうようになっているのかしら?


もし、同じエリアを訪れたことがある、出身だ、と言う方がいたら、お話してみたいです。ではでは、明日からは民話の町、日本の原風景が残る岩手県遠野市に入ります!

た・の・し・み〜! 「河童捕獲許可証」なるものが1,000円で売っている町らしいですよ?

(佐野)

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