早稲田卒ニート194日目〜そのとき私は何を〜
親の死がやって来たとき、それは私にとって喪失でも虚無でも有り得ないだろうと思う。とはいえ強い憎悪を抱く対象の死に際して何を感ずるかということは想像が容易ではないことだ。親類縁者と全く疎遠の私はそのとき確かな孤独に立たされるには違いないが、その孤独が直ちに不幸であるとは、今のところどうしても思えない。しかし、親の死を悲しむことのできない不幸というものがそこにはあるのかも知れない。身の回りにいる親の死を心から悲しんでいる人たちに接すると、不謹慎ではあるかも知れぬが、私はその態度を羨ましく思う。悲しむべきときに悲しめることの充実が人生にはある。新たな倫理観を獲得するだろうからだ。果たして私は悲しめるか。そもそも悲しむべきか。尤も答えを出すことに意味があるのではない。ただ、私にしか出来ぬ一回きりの体験として予定されているその日に向けた鍛錬を重ねなければならないのである。
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