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早稲田卒ニート19日目〜三浦先生の蓄音機会〜

本日は「旬魚旬彩仁」さんにて、三浦先生の蓄音機会でありました。

プログラム。最後の「ほか」が良い。


やはり三浦先生は凄い。あまりに偉大な方であります。プログラム通りに始まらず、プログラム通りに進まず、プログラム通りに終わらない。それがいつも通り。まさしく三浦先生の授業の様に、予定調和の進行なんかではない。

セゴヴィア、ブルメスター、カザルス、ベートーヴェン、バッハ、ローリングストーンズ、シューベルト、パールマン、ギトリス、メニューイン、渡辺茂夫、矢部達哉、佐渡裕、五嶋みどり、予備校、酒、山登り……まだまだこれ以上挙げ尽くせぬほど、何から何まで限界の無い三浦先生のトークは凄い。これが話芸かと感じる。決して、「話がうまいなあ」とか「教え方が上手だなあ」とか、そんな感想は生まれない。そんなものとは格が違う。お会いするたびに、自分のちっぽけさを痛感するはがりである。

浪人時代に受けた授業もそうであった。90分のうち60分(〜70分)は雑談。それはそれは大変な衝撃を受けたことです。退屈したことなどたったの一回も無い。いや、一回どころではない。わずか一瞬さえも無い。世界中のどこを隈なく探し回ったって、こんなにも知的で教養的で刺激的で、深々と感動させられる授業などあろうはずがない。勉強するとこんな人間になれるのか。苦しい人生を乗り越えるとこんなに魅力的な人間になれるのか。この人は世界の見え方が常人とは違う。世の中には、こんなにも凄い人がいるのか。とても信じられないくらい凄い人が、今目の前に立って喋っている。こんな人を前にして、自分はなんと未熟なものか。「高校生はもう大人だ、俺は自分で物を考えられる」とか思っていた自分に深く恥じ入り、深く反省した。とんでもない勘違いをしていた。

それに、これだけ偉大な先生のもとに集まる方々も、本当に凄い方々ばかりなのであります。こんな大人がおいでになるのかという驚き。また、もちろんこの会にも、そしてこれ以外の様々な会にも「教え子」の方たちが来ます。とっくに受験なんか終えたのに。みんな三浦先生に感謝しているのだろうと思います。それは「偏差値が上がりました!」とか「受かりました!」とか、そんなことへの感謝ではない。何か人生の重要な地点に、これほどまでに偉大な先生と「出会った」こと、それ自体への感謝であろうと思います。みんな三浦先生を慕い尊敬している。

私にとっての三浦先生は、人生の救済者であります。どんなに辛かった過去も全ては、三浦先生に出会い救済されるためにあった。ソクラテスに出会った青年プラトンではないが、私の人生は三浦先生に出会う以前と以後とで大きく分かたれる。俺はこんな人になりたいと願って生きてきたのだった。少しでもいいから近づきたい。しかし恐らく、一生かけてもほんの1ミリさえ近づけない。そんな方であります。こういう人に人生を通じて1人でも出会えたらそれだけでもう人生は充分だ。少なくとも私は、三浦先生に出会えたというただその一点において、自分の全人生を肯定できる。これは浪人時代、18歳の私の確信であります。そしてそれは今でも変わらない。むしろ確信を強め続けるばかりであります。

三浦先生のようにはなれないけれど、少なくとも三浦先生に教わった者として、私が三浦先生から授かった教えの一部を少しでも学生にお裾分けしたい。私が三浦先生から豪雨の如く浴びた衝撃を、今度は私から学生らへ、私の力不足で小雨に変わってしまうかもしれないけれど掛けてあげたい。それが、私が教師として生きていた時の願いであった。

三浦先生は明日は軽井沢で蓄音機会である。そちらへは参加できないが、来月某所にてまた蓄音機会がある。ちょっと遠くだが、そちらへは何としても、たとえ這ってでも…。道半ばで身が滅びようと、せめて魂だけでも…。

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