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早稲田卒ニート30日目〜『学生に与う』〜

いよいよ拙noteの連載も30日目まで参りました。そしてその節目に、総閲覧数が4000件を突破致しました。

日頃ご愛読のみなさま、まことにありがとう存じます。



ニュースなんかでプロ野球選手のインタビューを見ていると、ほとんどの場合その発言に思想が無い。大して考えてやっていないんだなと思う。選手だけでなく監督のインタビューだって、「この程度の発言しかできない奴が監督か」と情けなくなることが多々ある。が、発言に常に思想を感じさせられる野球関係者が3人。イチロー、落合博満、野村克也である。その思想は単なる観念論ではなく、あくまで経験的に獲得された思想であるから聴衆に響くのである。本物の「プロ」と言える。

例えば「教えてイチロー先生」というYouTubeの動画においてイチローは、「学校を作る人もいますけど、そういうのってどうですか?」という問いに対し、

具体的に出来るか出来ないかじゃなくて、それはいいなあと思います。優秀な人で、やっぱり心のある人が育っていったら嬉しいですね。今は、もうなんかテクニックばっかで、心が無いですよ野球も。もうつまんないですよ、その意味で。

世界的に誰よりも崇高なテクニックを持っているだろうイチローが、心を忘れたテクニックの流行に対する虚無と反発を口にするのである。「テクニックばっかで」の「ばっか」には、少しの苛立ちも垣間見える。私はこの発言を聞いて、同じことが今の教育に言えると共感しつつ、思い出した。戦前の教養主義者、河合栄治郎である。

『学生に与う』がここに収録された。
そのお陰で入手しやすくなった。

教育に携わる人間で、河合栄治郎の『学生に与う』を読まぬ人は失格であると思っている。教育に携わるというのは、教える側も教わる側も含めてのことである。

一般的教育は必然不可欠の根本条件であって、これなくしては特殊的教育も、存在の意義を持たないものである。この二つを遊離せしめて、特殊的教育のみをとるか、あるいは特殊的教育と一般的教育とを漫然と並立し、二つの間に何らの連関をもつけないことが、現代教育の根本的欠陥である。

(河合栄治郎『学生に与う』)

一般的教育とは「人格の陶冶」のことであり、特殊的教育とは「学問等の教授」のことである。河合栄治郎は、人格の陶冶が根本条件であり、それが無きところでの学問の教授は、存在の意義を持たないとまで言う。そしてこの両者、人格と学問とを関係付けないところに現代教育の根本的な欠陥があると言う。こんなことをはっきり言ってくれる人が戦前の日本にはいたのだ。

全くその通りで、今の教育は知や技能の伝達ばかりで、人格形成ということが無い。まことにつまらぬことだし、腹立たしくなってもくる。人格形成を第一に考えた教師なんて周りにそういませんから、教師なんかやっていた時は日々酷く苛立っていました。いや、学生だって、点数だとか偏差値だとかを上げたい奴ばかりでつまらん。どうせなら人格形成のために勉強したらどうなんだ。

学問と人格とは部分と全体との関係にあり、特殊的教育と一般的教育とは、枝葉と根本との関係にある。

(同上)

すなわち、学問などは人格という広大な全体の一部分に過ぎず、その学問を教授することなどは、人格の陶冶という根本にくっ付く枝葉に過ぎないのである。先のイチローについても、テクニックなどというものは心という根本に生えた枝葉でしかない。それゆえ、心なきテクニックは虚しいのである。根本を失った枝葉に充実は無い。人格の陶冶から目を背けて成される知の伝達は、存在の意義を持たない。

しかし、現代の教育はこの関係、もしくは順位づけが逆転してしまっている。どうやら勉強を「スキルの獲得」だと錯誤している人ばかりいるし、そんなスキルなどは所詮、人格を抜きにして涵養されるものではないということをすっかり忘却しているらしい。本当に、教育もつまらん時代である。みんな効率だとか方法論だとかばっかで、人格形成ということが無い。私は、「教育」と「学習」とを区別せず漫然と並列しているところに、現代教育の根本的問題があると思う。





『学生に与う』は、河合栄治郎死没の4年前、1940年に書かれた。晩年になってもなお青年諸君へ教養主義、人格主義、理想主義を語ったのである。そして、私も私なりの「学生に与う」をしたためて参る所存であります。



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