早稲田卒ニート102日目〜自己よ、ヴァルネラブルであれ〜
中途で入社したせいで学期の途中からクラスを引き継ぐことになったわけだが、これがまた苦難である。
小学生に悪気があるのかないのかは知らないが、「なんで前の先生に戻らないんですか?」や「前の先生の方がよかったのに」などと、私に向かって言ってくる。無礼をわきまえよ、などと説教はしない。教育は内容ではないのかも知れないのである。
所詮私など小学生からさえ必要とされないのであるが、そうすると、私が教師として教室に立つ意味が無くなる。私はまるで、教室という空間の座標に定位され得ぬ孤独な浮浪人である。それに、大半の連中はデフォルトとして話を聞かない設定になっている。小学生がこちらを向いて熱心に授業を受けるなど幻想であって、躾しなくてはならなくとも、こちらへの真剣な眼差しなど期待してはいけない。期待してもこちらが疲れるだけだ。それに、苦渋に満ちた人生でないと、他人の話を聞く気にならないのも無理はない。自分では自分を支えられないような状況にあってこそ、己の脆弱さを自覚して、他者に自らを開けるようになる。それゆえ自己は、なるべく「ヴァルネラブル」な方がよろしい。
小学生は面と向かって私の存在価値を否定してくるが、これが中高生なら授業の受講をやめていく。未熟な私は、実際に教室から人が減っていくのを経験している。あれは辛かった。どちらが残酷であるかは未だわからないし、そもそも小学生が受講をやめないのは、講座取捨の意思決定を自分で行わないからというだけの理由でもある。が、どちらにせよ、私の存在が否定されるには相違ない。ただ、その経験が大変重要なのである。意味ある自己形成は、自己否定の経験からしか始まってくれない。その否定もまた、己がヴァルネラブルであって初めて受け止められるというものだ。自己を保護してばかりの奴は、否定を拒絶するしかないだろう。それでは自己形成は始まりやしない。
かえって、誰からも否定されない奴は可哀想なものである。が、今、大人は子供を否定しない。子供の精神年齢が上がらないのは、大人が子供を否定してやることを放棄するような無責任のザマだからである。君は間違っているとか、君は今のままでは駄目だなどとは言ってあげず、「そんな考えもあるね」や、何かしらの言葉を掛け相手に気を遣って同調する。そして、そうやって大人は子供に本音を言わない。だが、青年諸君、私は聞きたい。君らは本音を語らぬような大人と腹を割って喋れるというのか。そんな大人が信頼に値するとでもいうのか。本音を突きつけてくる大人より、こちらが傷つかないようにと優しく当たり障りないことを言ってくれる大人を求めるのか。
一方で子供は本音しか言えない。建前も使えるが敢えて本音を言う大人と、本音しか言えない子供とではわけが違う。建前を使うのは当然気遣いだが、建前を言わずに敢えて本音を言ってやるのもまた、相違なく気遣いではないか。建前を使えないのに本音を吐露するのは、正直の面を被ったただの無神経というものである。
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