活動を開始するにあたって
6/21追記 キャラクターの誤字を訂正しました。
閲覧に際するご注意
当記事はテレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』並びスマホアプリ『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』のネタバレを含みます。
ご視聴がお済でない方はこの記事を閲覧する前に一度視聴することを推奨します。
またマギアレコード等、魔法少女まどか☆マギカの関連作品を総称して「まどマギ」と表している箇所があります。ご了承ください。
1.はじめに
こんにちは!早稲田大学まどマギ研究会のNoteを閲覧いただきありがとうございます。代表のみやさかと申します。
これから活動を開始するにあたり、当サークルの今後の方針等を手短ではありますが綴ろうと思います。よろしくお願いします。
2.まどマギを振り返る
最初に軽くではありますが、当サークルが扱う『魔法少女まどか☆マギカ』のこれまでの沿革を振り返ってみようと思います。
当記事を執筆している2022年から約11年前の2011年1月、テレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(以下、まどマギ)は物語の封を切られました。脚本を務めた虚淵玄氏が
と発言するなど当初はまどマギの本筋に関する情報は厳重に伏せられ、キャラクター原案を務める蒼樹うめ先生による登場人物たちのビジュアルイラストなど限られた情報しか発信されていませんでした。
放送開始直後では先ほど載せた虚淵氏の言葉通りの(?)ストーリーが続いていましたが、まどマギをまどマギたらしめる物語が始まる「第三話」を皮切りに今日まで多くのファンを獲得するに至った、原作のないアニメゆえに展開の読めない、少女たちの運命をめぐる重厚かつ残酷なストーリーが織りなされていくのでした。また東北地方太平洋沖地震に伴う東日本大震災の影響で放送の延期が行われ、放送が延期された回は災害を象徴するような魔女が登場する回であったことや最終回の放送に際し新聞広告を用いた宣伝がなされたこともありいっそう話題性が高まった、といった出来事があったのも事実です。
その後2012年には総集編映画である『[前編]始まりの物語』、『[後編]永遠の物語』が公開されました。2013年には完全新作映画である『[新編]叛逆の物語』が公開され多くのファンにとって予想だにしない展開が繰り広げられ、深夜アニメとしては初めて興行収入が20億円を突破するなど社会的にも多くの反響を呼んでいたことが伺えます。
また2017年にはスマートフォン向けソーシャルゲーム『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』(以下、マギレコ)がリリースされ話題を呼んだほか、2019年~22年にかけて同作品のテレビアニメ放送が行われました。ゲーム内で繰り広げられた物語がそのままアニメ化されるのかと思いきや、第1話の時点でゲームで登場していないキャラクターが登場するなどといった出来事にこちらでも話題を呼びました。
そして2021年にはまどマギの10周年を記念したプロジェクトの発表があり同年4月には『[新編]叛逆の物語』の正式な続編に相当する『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻転〉』及びテレビシリーズのサイドストーリーである『魔法少女まどか☆マギカ scene0』の制作発表が行われました。
その他、『魔法少女おりこ☆マギカ』などの外伝作品や現在開催中である『魔法少女まどかマギカ 10(展)』に代表される展覧会、各企業とのコラボグッズの発売など、特に10周年を迎えてからはまどマギというコンテンツの人気が再燃してきているようなそのような印象を受けます。
3.まどマギの提供する魅力
このようにテレビ放送から11年たった現在に至るまで多くの人がまどマギに魅了され続けています。では魅了され続けるその所以はいったいどこにあるのでしょうか。例えば、想い人を救うため何度でも時をめぐる彼女、残酷なまでに過酷な魔法少女たちの運命、物語のいたるところに散りばめられた伏線の数々、、といったこともこの作品が私たちを魅了するものの一つでしょうか。
まどマギに関わらずどのような作品であれファンを惹きつけるために用意された魅力は存在します。その魅力は一度見れば明らかであるものから物語を注視して見ないと気が付くことのできないものまで様々です。しかし気が付くことが出来れば私たちを表面的に明らかな魅力よりも深く、作品が仕掛けた深遠な「沼」へ引きずり込んでくれる、後者はそのような魅力であることが多いと私は思います。
私の主観ですが、多くのアニメでは視聴者が一度見れば納得する展開、感じ取ることのできる魅力で構成されていることが多いと感じます(もちろんその背後には様々な裏設定などファンをさらに惹きつける魅力も用意されているわけですが)。それに対してまどマギは初見で見たときにはどこか形容することが難しい、そのような魅力が多く用意されていると私は思います。
そのような魅力を生成している存在としてキュゥべえが挙げられます。本作にて少女たちの願いを叶える代わりに魔法少女として戦う使命を課す役割を担っているキュゥべえのセリフに、
というものがあります。まどかに対しキュゥべえ自身の目的を告げたシーンのものですが、このセリフから明らかなようにキュゥべえに対し我々の価値判断基準は通用しません。あくまで「エントロピーの増大による宇宙の消滅を防ぐ」という目的のもとで、魔法少女や魔女という存在を利用する際に犠牲となる少女の願いを叶えてあげている、しかもキュゥべえ自身は皆の宇宙のための仕事をしているのだから協力しないほうがおかしい、というスタンスで一貫しています。
当たり前のことながら、多くの人はキュゥべえに対し憎悪などの負の感情を抱きます。それはもちろん当然なことです。キュゥべえが行っている行為は前述したように我々の価値判断基準と大きく相違しており、そのせいで多くの少女が魔法少女としての戦いを強いられ、絶望に飲まれ、悲惨な最期を迎えてきたのですから。
しかしこのキュゥべえの存在がまどマギという作品により味を持たせ、多くの人を惹きつける魅力を作り出しているのも事実です。ファンが思いを寄せるそれぞれの魔法少女の生き様など、まどマギはキュゥべえという存在がいたからこそファンに強く訴えるものになっているのだと私は思います。逆説的ですが、ある意味でファンはキュゥべえという存在にも魅了されているともいえるのではないでしょうか。
これが私が考える、先ほど示したまどマギの魅力の一例です。まどマギはある意味で皮肉ともとれるこうした魅力を様々な場面で見い出すことが出来ます。
例えば佐倉杏子や美樹さやかの生き様の対比がそうでしょうか。あくまで自分のために魔法を使うということを今まで徹底したが、最期は他人のために魔法を使い散っていった杏子。正義のヒーローとしてたくさんの人々を助けることを志したが、たくさんの人々を呪う魔女という存在に転落したさやか。この対比もまどマギを語るうえで外せない魅力の一つです。
もちろん、そうしたものから構成された魅力だけがまどマギが愛される所以ではありません。他にも様々な魅力があるでしょう。その中でも私は「救い」という観点でも魅力を考えるべきだと思います。
まず「救い」という語を辞書でひいてみると、
と出てきます。
私はまどマギは1と2の意味の「救い」を併せ持つような作品であると思っています。1の救いは瀕死の巴マミをキュゥべえが魔法少女の契約という形で救ったことや、美樹さやかの願いが幼馴染の上条恭介を再びバイオリニストとして救ったことなど様々なシーンで表面的に描かれています。ここでは特に2のある種宗教的な意味で用いられる救いの観点でまどマギの魅力を考えていきます。
まどマギはよく「救いがない」作品であると形容されます。恐らくこの場合の「救い」は2の意味を用いていると思います。作品全体を通じてプラスのベクトルへ進んだという描写はほとんどありませんし、最終回も一見しただけでは疑問の残るような展開で幕が閉じられたのもその要因でしょう。
それではどのようにしてこの作品に救いを見出すのか。私はまどマギの世界の魔法少女の契約から魔女に至るまでの過程(以下、魔法少女システム)に目を向けるべきだと思います。
その前提として、まどマギの世界において「等価交換」という秩序は一定不変の存在としてあり続けていることを念頭に置く必要があります。等価交換は錬金術などで使用される言葉ですが、作中でも佐倉杏子や美樹さやかのセリフに、
というものがありますが、"希望と絶望のバランスは差し引きゼロ"、式で表すと
「希望」-「絶望」= 0
となります。この場合のマイナスの項である「絶望」を右辺に移項すれば
「希望」=「絶望」
という等号が成立します。つまり希望と絶望は等価交換が可能と言い換えることが出来るのではないでしょうか。
作中では奇跡とも評される願い事をキュゥべえに叶えてもらう描写がいくつかあります。それと同時に魔法少女としての戦いを強いられ最終的に魔女という存在に行き着くわけですが(戦いの中での死はここでは考慮から省きます)、ここに等価交換の秩序を見出せます。本来ではありえない奇跡を叶え最大限の希望を与える代わりに、最終的な行き先として魔女という魔法少女の対義となる存在を用意しそこへ堕とすことで同じだけの絶望を払わせてゼロに戻す、そのような秩序が魔法少女システムには存在していると思います。希望が絶望で報われる等価交換の秩序=魔法少女システムと言い換えてしまっていいくらいではないでしょうか。
そのような魔法少女システムを私は「川」のようなものに例えるとわかりやすいと思います。無償で希望を叶え魔法少女となった者は代償として一本の川に入ることとなります。そこは岸から這い上がることは許されず、絶望しただけ下流に下がっていくという秩序が働いており、最後には滝から落ち魔女になるといった具合です。
そういったシステムに当然のことながらファンはやるせなさを感じます。しかし魔法少女が魔法少女である限り、このシステムからはどう足掻こうとも抜け出せないのです。もしかすると魔女が倒され、役割が終わったその先でこのシステムから抜け出すことが出来るのかもしれませんが、そのような成れの果てに安堵感のある救いなど見出すことはできないでしょう。ファンは「魔法少女が魔法少女である、その瞬間の救い」を欲しているのです。私はこれこそがまどマギという物語の命題であると考えています。
そうした救いを実現させるために虚淵玄氏が入れ込んだメスこそが最終回のまどかの願い、および円環の理という概念ではないでしょうか。最終回にてまどかは、
という願いを祈りました。
この願いは物語を一般的なハッピーエンドに持っていくには不十分なものであったかもしれません。ハッピーエンドというものの定義にも寄りますが、もし魔法少女となった少女たちが通常の少女として生きることがハッピーエンドだとすれば、「魔法少女という概念を消し去って、みんなを元の少女にしたい」という願いを叶えればいいわけですから。魔法少女がいなければ、当然、魔法少女を元にする魔女は生まれないことでしょう。
しかしそのような願いをするということは過去や現在、未来において魔法少女として戦った者の人生を否定することにつながると私は思います。同じく最終回のまどかのセリフに、
というものがあります。このセリフからもわかるように、まどかは魔法少女という存在自体は否定していません。希望を信じ絶望と戦ってきた者たちの軌跡を否定したくなかったのでした。まどかはあくまで希望が絶望で報われる等価交換の秩序が許せなかっただけなのです。さらに先ほどの「魔法少女が魔法少女である、その瞬間の救い」を実現することがまどマギの命題であるとすれば、まどかが祈った願いや円環の理という概念が生まれたことも理解できるのではないでしょうか。
まどかが祈った魔女という存在を消し去る(正確には魔女という概念は存在し続けているのですが)という願い、それは魔法少女が絶望と共に最期を迎えるのを避けられる、ということと同義であると仮定します。先ほどの例で例えるなら滝の前にセーフティーネットが敷かれるといった具合です。しかし魔法少女システムには等価交換という秩序が常に働いています。本来あり得ない奇跡を叶え希望を手にした代償はどこかで支払わなくてはなりません。
そこで登場するのが円環の理という概念です。円環の理とは女神まどかなどを指す場合が多いのですが、ここでは魔法少女が絶望に堕ちる前に存在自体を消滅させる魔法少女システムの一部という枠組で考えます。先ほどの例では円環の理はセーフティーネットに相当するでしょう。この場合存在の消滅が希望の代償ということになり等価交換の秩序を維持することが出来ます。
ここにおける存在の消滅を魔法少女システムからの脱却を意味していると捉え、さらにまどかの願いにより魔法少女が絶望するのを回避することを許すという先ほどの仮定も合わせると、魔法少女が魔法少女としての存在を否定されることなく、魔法少女の姿のままでシステムからの脱却を果たすことが出来たと考察できます。ここに救いのようなものを見出せるのではないでしょうか。
これは私が思う物語全体を通した救いの見い出し方です。ある意味でこの作品の救いの見い出し方はファンに委ねられていると思っています。作品から問われた、いかにしてこの作品に救いというものを見い出すかという問い、それを否応にもファンは考えさせられます。また救いを見出すことに関わわらず、考察に考察を重ねた先にのみ見えてくるものがこの作品にはあります。そうした機会が提供されているからこそまどマギが約11年もの間愛され続けているのでは、と個人的には思っています。
3.当サークルを作ったきっかけ
さて、これまで長々とまどマギの提供する魅力、まどマギが愛される理由について独自の見識を綴ってきましたが、ここで漸くですが私がこの「早稲田大学まどマギ研究会」というサークルを作った目的について手短に書きます。
単刀直入に言ってしまいますと、まどマギの論考を書きたい!などといったことではなく単純にみんなでまどマギを語れる場所が欲しい!という目的で立ち上げるに至りました。私はあくまで同じコンテンツを愛する者が集まる、見識の深さなどは問わない大学の「サークル」という立ち位置は抜け出してはならないと思っています。またまどマギという作品は11年前のものであり近年マギレコのリリースや新作映画の製作発表なども行われていますが、リアルでまどマギが好きという人、その好きを共有できる人を見つけることは難しいのではないかと思います。また私が調べた範疇でありますが、他大学にまどマギやマギレコを専門に取り扱うサークルは存在しないように思われます。そこでその好きを共有できる場所を作りたいという思いから当サークルの設立に至りました。
私としては前述したようにまどマギが好きという方であれば気軽に入会して頂けるような場所を作りたいため、あまりサークル全体の活動としてまどマギに対する論考といった難しいことばかりに傾倒してしまうのは新規でまどマギという作品を好きになった方を遠ざけてしまう結果につながりかねないと個人的には思っています。
しかし、論考を書きたいという理由で当サークルへ加入してくださった方もいます。まどマギがここまで長い間愛される所以はストーリーを掘り下げても掘り下げきることのできない、その濃密な魅力の数々にあると思います。もちろん個人の活動を制限するようなことはあってはなりませんし、当サークルの活動として論考といったことをやっていきたいと考えているというのも事実です。
これらを踏まえ、次の章で当サークルのこれからの活動について書かせていただきます。
4.これからの活動について
当サークルの今後の活動として主に3つのことを考えています。
①Note
更新頻度がどのようなものになるか不明ですが、これからもNoteは更新を続けていきます。内容としましてはサークル会員の方々との対談やサークル会員の方々によるまどマギの論考などを載せていければ、と思っています。とりあえず外部に向け何か発表を行う活動としてはこちらをメインとしていきます。
②同人誌制作
当サークルでまどマギの創作物を作ることはサークル会員の方々も多く希望していました。私としてもいつかやってみたかったことであり、また行う際には論考などに囚われるのではなく広義での二次創作を行うという方針を目標にしたいと思っています。現段階で実現させることが出来るか不明ではありますが、私としてはC101を一つの目標に動いていくことが出来ればと思います。同人誌制作の是非などが決まりましたら、当サークルのTwitterで告知します。
③通話など
これはサークル内で完結してしまう活動ですが、月に1度ほどの定例的な通話を予定しています。また通話の際にNoteの記事として用いる話題の対談や何か企画を行います。企画としてAmazon primeのウォッチパーティー機能を用いてまどマギをサークル会員の方々とオンライン上で視聴する、といったことが出来れば面白いのではないかと思っています。
以上、3つの活動を主に行っていく予定です。
早稲田大学まどマギ研究会は出来たばかりのサークルであり運営も現状は代表の私しかいません。(他大生はもちろん、早稲田生絶賛募集中です…!)
そのためサークル活動も代表の都合に左右されてしまうことがあるかと思いますが、サークルを立ち上げた以上、私が大学を卒業するまではしっかりと運営を続ける所存です。
どうか暖かい目で見守っていただけますと幸いです。
あとがき
最後になりますが、当サークルの最初のNoteをここまで拝読下さりありがとうございました。私自身このような文章を書くことは初めてであり、特に3の部分は読みにくい箇所があったかもしれません。先にお詫び申し上げます。
Noteはまた更新していきますので今後とも当サークルをよろしくお願いします。次回の更新もお楽しみに!
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