白石かずこ『火の眼をした男』『砂族の系譜』

『火の眼をした男』
不思議さを感じた。
暖かさに距離を感じる。なぜなら、触れていないから。主体が暖まっていない。
火へんがない。
「~くれた」主体の感覚はあるが、あまり対面している感覚がない。主体は幸せになっているのか?
「かわりばんこ」連鎖を感じる。
この詩を読んで不安になった。
主体は読み手では? 白石さんが書き手であることをあまり感じなかった。
読み手として主体になれなかった。書き手を詩の中に探してしまった。
「革命のあいま」が引っかかった。何気ない暮らしから、世俗的なものに?
暖かさの火なのか、革命の火なのか。
幸せになる一瞬があるが、それ以外は幸せではない。
幸せという言葉は難しい。タバコを吸っていないと禁煙ができないように、不幸でなければ幸せになれない。
革命という言葉が重い。幅の広い言葉が使われているので、焦点が合わない。生活と釣り合わない。
カナカナの長音がいい。
第三世界を見つめる私たちという視点を利用されている。
私たちがアフリカに対して持つイメージは、権力関係によって生じたもの(第三世界に対するイメージ)なのに、それを利用しているグロテスクさ。
作者は世界中を旅しているらしい。
「火の眼」というのは、瞳に火が写っているという意味かもしれない。
詩集で見ると行間が詰まっていて、息苦しい。
 
『砂族の系譜』
かなり長い詩。言葉一つひとつが大きい。
砂漠と沙漠の違いが気になる。乾きに近いから沙漠。
でも「沙漠とは 豊饒な海 緑地ではないか」。物質的には乾いているかもしれないが…。
五ページ目で自分の中に作られた王国が、みちてきている?
これを座談会でリクエストした理由は、浅田彰『構造と力』がこの詩で終わるから。唐突すぎる砂漠のイメージを、私は理解しきれなかった。
この詩には、白石かずこが持つ、砂漠の哲学が詰め込まれているのだろう。
我々にとって、砂漠とは何か?
日本に生きる私たちにとって、砂漠は縁遠い物
しかし、砂漠をモチーフにした作品はいくつもある。
私が個人的に大好きな、サンテグジュペリの作品たち。カミュの異邦人。ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』。バタイユにも砂のイメージが出てくるらしい。
旅行記にも読める。世界のいろんなところを旅している。
太古、太鼓、やってんなあと思った。
ノドだけカタカナ。固有名詞的に表現することによって、言葉にしていくことの特権性を表している。
なぜナゾやアイマイをカタカナにしたのか?スピリットと同列にされている感覚になる。
リバーサイドってどこ?カリフォルニア旅行記ということ?
入口の話をよくしている。
土地の記憶を私物化している。自信をもって、旅行して見てきたものを書いている。
死は熱い?ポエジーは太い?
肉体は濡れているが、死によって乾いている
沙漠についてこんなに書けるのはすごい。湧きでるものは感じる。
「白石さんは本当に砂漠に行ってきたのか?」と思ってしまう。砂漠があまり身に迫って感じられない。『火の眼をした男』でも感じた、主体のなさ。
わたしの内側について書いてあるが…。
なぜこんなに長いのか?普段あまり読まない長さ。
表記が面白い。ちゃんと勢いがついたり、息遣いが感じられる。

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