キナリ杯なるものがあると聞いたので

#キナリ杯

なんか書くと読んでもらえるらしい。

面白いとなんかもらえるらしい。

書いて損は無いだろう。

普段はnoteで記事は書いていないので、以前に他で書いた記事を掲載しようと思う。

僕の仕事に関わる事。

面白いかどうかは分からないけど、何かを感じてもらえたら良いと思う。

まず予備知識。

和裁というのは、着物を仕立てる技術の事。

洋裁は、四角い布を自由な形に裁断して立体的に縫製する。縫代は切り落として少なくする事が多い。

和裁は、四角い布を四角いまま裁断して平面的に縫製する。縫代は切り落とさずに内蔵させる。

和裁により仕立てた着物は、解けば四角い布に戻る。

縫代が温存されているので、寸法を変えて仕立て直す事も出来るし、着物から羽織へと形を変えて仕立て替える事も出来る。

変化を前提に、新たな未来を見据えた、そんな仕立てが和裁である。

着物を着るとは、自分にとってどんな事なんだろうか…

自分の襦袢のほつれを見た時に感じた事をまとめた文章です。

お読みください。


「着物を纏うとは…」

着物が好きな人は何故、着物を着るのでしょう。
着るとどの様な気分になるでしょう。

テンションが上がる。
特別感がある。
身も心も引き締まる。
など、人によって、着る場面によって、色々でしょう。

僕の祖母は着物の仕立てができる人でした。
「四十の手習い」などと言っていたので四十を過ぎてから覚えたのでしょう。
地元の腕の良い職人さんに教わったと言っていました。
着物はもちろん、羽織、小裁ち、コート、綿入れなど、様々なものを仕立てていました。
今よりは寸法は大雑把だった様ですが、自分が和裁をやるようになって祖母の偉大さが分かりました。
お正月は家族で着物を着て過ごしていましたので、全く馴染みの無いものではありませんでした。

和裁を始めて、行事などで着る機会が増えました。
仕事の延長で着るわけですから、半分は面倒だなと思いつつ、それでも特別感や高揚感を覚えます。
最近ではオフ会や囲碁で着る事が増えました。
仕事が関係無くなるとやっぱり楽しい部分だけになりますよね。
囲碁を打つ時に着ていくと場の雰囲気にも合うし、家を出る時はウキウキしますね。

今年の春先に襦袢を着ようとしたら、袖付がほころびていました。
祖母が女物の紬の着物を僕の襦袢として仕立て替えてくれた物です。

あ、おばあちゃんが作ってくれた襦袢が…

祖母は僕が和裁を習うと伝えた時、やめた方が良いと言いました。
何故そう言ったのかは今になればよく分かりますね。
でも、お盆やお正月に帰省すると和裁の話で盛り上がりました。
仕立てた着物の写真を見せたり、失敗した話をしたり。

和裁は、仕立て替えや仕立て直しを前提として裁縫する事が多いです。
多いというか、ほぼそれです。
未来を見ているのです。
その未来は無いかもしれないけれど。
でも、未来を見るのです。
女物の紬の着物は祖母の手によって見事に男物の襦袢という未来を実現しました。

頭では分かっていました。
でも、襦袢のほころびを見て心で感じました。
未来へ受け継がれた着物には想いが込められている。
反物になるまでに関わった職人さん達の想いはもちろん、最初に仕立てた職人さんの未来への想い、着ていた人の想い、仕立て替えた職人さんの想い、それらの人達に対する自分の想い。
仕立て替えた亡き祖母の想いが込められていただろう襦袢の一部が欠落した事で強く認識しました。

着物は想いを纏う事ができる。

もちろん、着物以外の衣服や、衣服でなくても、作った人や前の持ち主の想いが込められている物は沢山あるでしょう。
でも、着物は特に想いが強く残る気がします。
それは僕が和裁士だからかもしれませんが、僕の中ではそうなのです。

襦袢の袖付はまだ直していません。
失ってようやく気付いた想いを、しばらくはそのまま強く感じていようかなと思います。
祖母から受け継いだ襦袢を着て、自分で仕立てた着物を着て、祖父から受け継いだ(まだ祖父が生きている時に無断で持って来た)帯を締めて、ウキウキしながら出掛けるのです。



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