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紙の本

紙の本が好きだ。
これは箔押しの装丁が綺麗な本。これは流行る前に初版で買えた本。これは、古本屋で叩き売られていたサイン本。
1冊ずつ重みを確かめて、パンダの柄のダンボールにおさめていく。
たまに何ページかめくってしまうので作業の進みがとても悪い。
私は今月この街を越す。
部活にもサークルにも入らなかった私は、本を読んで長い長い人生の夏休みを潰した。
荷造りを手伝いに来た母に「少し売ったら?」と言われたが、1冊も手放したくなかった。
品名に「本」と書いた箱をじゃんじゃか積む。
大量のパンダがこちらを向いて微笑む様子は不気味である。

そういえば、1冊見当たらない本があった。
見当たらない と書いてしまったが、なぜ無いのかはしっかり覚えている。
「中村さん、詩集とか読むんだ」
煙たく香るアメスピの匂いと、温くなった缶ビールの味も鮮明だ。
2年生の夏、同じ教養科目を取っていた加藤くんという子だった。
WiFiの通信料を3ヶ月払いそびれた彼は、なぜか私の部屋に電波を求めて転がりこんだ。
何週間かこの部屋で生活して、私の手料理を毎晩絶賛しながら食らい、安酒を2缶飲んでパッパラパーになったら私を抱いた。
ハンバーグを食べた時の「うめぇ」と、私の胸を揉んだ時の「やわらけぇ」はほとんど同じトーンだった。
馬鹿だけれど、加藤くんは可愛い馬鹿だった。
だから、本に興味を持つなんて意外だった。
読んでみなよ、と最果タヒの詩集を差し出すと、彼は「面白そう!サンキュ」と詩集をリュックに突っ込み、電波が復活した自室に帰って行った。
帰って行って、それっきり会っていない。

3年生になった頃、彼は大学を中退してバンドのドラムをやっているらしいと聞いた。
ドラムが叩けるなんて知らなかったけど、大雑把で元気な彼にはドラムがよく似合う気がした。
きっとスティックをクルクル回して、大袈裟に頭を振って叩くのだろう。
彼は最果タヒを読んだのだろうか。
リュックに吸い込まれるカラフルな表紙を思い出す。
多分私は、彼がヘラヘラ笑いながら「難しくて分かんなかったや」と言って返しに来るのを期待していた。
「私たちって付き合ってるの?」と、聞けばよかっただろうか。
私を捨てた呪いとして、勇気のない自分への罰として、あの1冊は貸したまま引っ越すことにした。
最後のダンボールをガムテープで封じる。

私は、紙の本が好きだ。

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