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酸性雨

目に跡が残るほど彩度の高いブルーシートの青に、真っ白な石膏が一滴垂れた。
手のひらで乾いた粉をエプロンに擦りつける。
僕はしがない芸大生である。
親には「芸術なんか金にならない」と反対されたし、受験期の自習の時間にスケッチブックを開いていたら「座学をやれ」と教師に殴られた。
こんちくしょうと反対を押し切って入ってはみたが、芸術にはわけが分からないほど金がかかるし、売れるのは大変なことだった。
先輩たちはみんな普通に就職して普通のサラリーマンになっていく。
ただ作ったものを買ってもらって生きていける人なんてひと握りなのだ。

「進んでるかい」
思わず「ぎゃっ」と声を出して振り返る。
いつの間に入ってきたのか、教授が背後に立っていた。
完成した塑像を見て「ふぅん、ふんふん」と長いこと唸った。
何か思っているならはやく言ってほしい。
「今回のは総理大臣ですか」
「…そうです」
「よく似ているけど、ちょっと…愛がないですねぇ」
「はぁ…」
愛がないと言われましても、と言いかけてやめた。
「出品まで日がないですから、まぁ頑張って」
「はい、頑張ります」
梅雨の彫刻室の空気は、粘土の匂いが濃くてぐったりと重い。

これが学生時代最後のコンテストである。
一昨年から長い時間をかけて作った、おびただしい数のブロンズをこれでもかと並べた。
会場の設営の時点で、他校の学生が遠巻きに「狂ってるよねアレ」と噂するのが聞こえた。
「あ!山内君じゃん!久しぶり」
声をかけてきたのは、2回生の頃の想い人だった。
「田中さん、久しぶり。元気にしてる?」
「元気元気!春にはあっちに行くんだ」
あっちに行く というのは、今の彼氏と結婚することをオブラートに包んだ言い方なのだろう。
「酔ってただけだから」と言いながら、ブラジャーのホックを留める彼女を思い出す。
あんなことがあったのに、何事も無かったみたいにケロッとして声をかけられる才能がおそろしかった。
「こんなに作るの大変だったでしょ」
「まぁね、締切ギリギリだったよ」
「これだけあると、自分に似てるやつ探したくなっちゃうな。あ、これとかそっくり」
それもそのはずだ。
彼女が指さしたのは、僕が精巧に作った彼女の頭だったから。

展示が終わって荷解きを終えたら、ブロンズを全て大学の裏庭の茂みに転がした。
「君が私の頭を作らなくて安心しましたよ」
また教授がとこからともなくやって来た。
「ここにずっと置いておく気ですか?」
「…まだ完成じゃないんです」
「そうですか」
教授は、「ふーん」と唸った。
「良いでしょう、よく降るといいですね」
たくさんの頭が、雨に降られる。
総理大臣、僕を殴った数学教師、小中高時代のいじめっ子たち、バイト先の店長、たまに来る社員、父親、田中さん。
皆、僕の大嫌いな人の頭だ。
丈夫な金属として固められた彼らは、途方もない時間をかけて酸性雨に溶かされる。
僕はこれまでに出会った嫌いな人間たちに、死ぬに死ねない命を持たせて、自分の手を汚さずにいたぶりたくてこの像を作った。
雨がブロンズを撫でる。
僕はきっともう芸術をやらない。

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