あまいにおい
甘ったるい匂いがする。
玄関の物音で目が覚めた。
「おかえり」
「心愛、もう起きてたの?ただいま」
母は華奢な靴を脱ぎながらため息をついた。
小さなカバンと分厚いコートを受け取る。
コートを抱くと、シャネルの5番がより強く香った。
母は「気持ち悪い〜」と言いながらまっすぐキッチンに向かった。
水道水をカランから直に飲んで、重たい動作で冷蔵庫から卵を取り出す。
「いいよ、無理して作らなくても」
「だって、コンビニ弁当じゃ健康に良くないわよ?成長期はちゃんとバランスよく食べないとすぐ肌荒れするんだから」
カパパパパ と、卵を2つ溶く音が聞こえる。
「それに、今日が最後のお弁当じゃない」
制服のスカートのホックをとめながら、卵が焼ける音を聞く。
深い赤のドレスに夜会巻きでキッチンに立つ後ろ姿。
これが我が家の朝の風景である。
父が蒸発してから、母は夜の仕事をしながら女手一つで私を育てた。
物心ついていたので何となく気まずくて、どんな仕事なのかは結局詳しく聞かずにいた。
毎日酔って朝に帰り、ぐったりしながら私の弁当を作り、それを渡したら化粧も落とさずに寝てしまう。
参観日や運動会にはあまり来てくれなかったが、お弁当だけは毎日作ってくれた。
私も毎日お米ひとつ残さず食べた。
このお弁当だけが、活動時間が逆転した母との唯一のコミュニケーションだった。
「はい、今日も行ってらっしゃい」
私の支度が終わるころ、ランチョンマットに包まれたお弁当を渡してくれた。
「ありがとう、行ってきます」
詰まった重みを感じながら、カバンにお弁当を仕舞った。
お昼休み、ランチョンマットを開くと「心愛へ」と書かれた手紙が入っていた。
恥ずかしいなぁと思いながら机の下で開く。
『心愛へ 3年間お弁当を作らせてくれてありがとう。今日のお弁当は3年間の集大成です。残さず食べてネ』
「ネ」がカタカナなのも、手紙がハートに折られていたのも恥ずかしい。
「心愛〜!食べよ!」
「うん!」
佳奈が机を寄せてくる前に手紙を引き出しに隠した。
「心愛のお弁当は今日もすごいなぁ」
佳奈は購買の焼きそばパンを頬張りながら弁当を覗き込む。
良かった。キャラ弁だったらどうしようかと思った。
「あ!このピーマン、美味しかったんだよね〜。筑前煮もある!あ、枝豆のおにぎりじゃん!」
彼女は毎日私のお弁当を覗いて、美味しそうだと思ったものをたまにひと口攫う。
あんまり美味しそうに食べるので、私も少し嬉しかった。
「すごーい!今日、全部私の好物だ」
ラインナップを見直す。
なるほど、このお弁当は集大成だった。
私が家に帰るころ、母はいつも仕事に向かうためにメイクをしている。
「今日のお弁当、どれが一番美味しかった?」
私がいつも困る質問だった。
一番なんて決められないと言うと機嫌が悪くなるので、できるだけ手が込んでいそうなものや佳奈がひと口食べて喜んでいたものを言った。
「枝豆のおにぎりと卵焼きかな」
それだけ聞くと満足そうに「ふぅん」と頷き、鼻の下を伸ばしながらアイラインを引く。
あんな態度だったのにちゃんと覚えてたんだ。
卵焼きを齧る。
母は卵焼きに砂糖を入れすぎている。
3年間言えずじまいだった。
「心愛、泣いてるの?」
佳奈がティッシュを手渡してくれた。
今日こそ一番なんて決められない。
全部美味しかったと言おう。
窓越しの陽に当たった卵焼きは、甘ったるい匂いがする。
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