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ウェディングケーキを倒した

私は今、街を全力疾走している。
涙なのか鼻水なのかも分からない液体で顔が濡れて、向かい風が痛いほど冷たい。
職場から走って、走って、遂に見覚えのない景色の場所までたどり着いた。
貸テナントの窓ガラスに映った自分を見る。
とても普通の会社員には見えない上等なシルバーのスーツ。しかし、右肩から袖にかけて生クリームでギトギトに汚れている。
胸元の名札を外し忘れていたことに気づく。
「終わった…」
自分の所業を思い出し、絶望に天を仰いだ。

結婚式場に勤めはじめて3年になる。
弊社が掲げるモットーは「最強の・最大級の祝福を」。
ゴンドラでの入場や、見上げるような高さのケーキ入刀をいまだに体験できる、バブル時代の遺跡のような式場である。
しかし、家族婚や小規模な挙式が主流になりつつある令和の世で、金のかかる派手婚をやりたがる新郎新婦はそう居ない。
挙式は減るのに維持費は変わらず、人が足りないのに人員削減を進め、どの部署も声の大きい者が声の小さい者を怒鳴ってなんとか回している。
なにが祝福を、だ。
若手の私から見ても、我が社は十二分に破綻していた。

「新郎新婦のご入場です」
ストロボを付けたフルサイズ機は2台持つと首がもげるほど重い。
左耳のトランシーバーから、ひっきりなしにスタッフ同士が殺気立って指示を擦り付け合う罵声が聞こえる。
スピーカーから流れる荘厳なオルガンのメロディとはあまりにもミスマッチで吐き気がする。
「藤田、ぼさっと立つな邪魔だよ」
メインカメラマンの山本に肘でどつかれた。
こんなやり取りをしている割に、客の前では誰も穏やかな笑顔を絶やさない。
私も肘を入れられた脇腹を抑えて口角を上げる。
今日は、新郎新婦も参列者も、ヤンキー上がりの輩ばかりだ。
乾杯するやいなやしこたま酒を飲み、瓶のビールをかけあって会場はめちゃくちゃである。
「藤田さん、キッチンサポートお願いします」
トランシーバーから雑務の指示がくる。
「山本さんすみません、キッチンに…」
聞こえないように舌打ちされ、後ろ手で しっしっ と手を振られた。
厨房に入ると、バイトの女の子が大きなケーキが載ったワゴンの前でウロウロしていた。
「お待たせ、運ぼうか」
カメラを置いてワゴンを押す。
祝福に満ちた司会の声、トランシーバーの怒号、騒ぐ客、流行りのウェディングソング。
処理しきれない雑音の中で呼び止められた。
「あれ?藤田だよね」
白いタキシードを着た彼の後ろのスクリーンに、幼少期の思い出ムービーが流れている。
卒業アルバムから切り出された写真に、「牛乳早飲み選手権1位!」と安っぽいテロップが光る。
他の机はぴったりと合わさっているのに、一人だけ3cmほど開けられている。
新郎と他の二人は肩を組んでピースをしているが、一人外れて作り笑いをしている小学生。
私だった。
「なぁ!藤田居るんだけど!」
新郎は客席に向かって大声で呼びかけた。
よく見てみれば、客席にも何となく見覚えのある顔ぶれがある。
どっと笑い声が起きた。
会場の視線が私に集まる。
「ほら、飲めよ」と、ビールを渡された。
チョークの粉を混ぜた牛乳に見えた。
バイトちゃんの「あっ」という声。
私はビールから仰け反るようにして後ろ向きに倒れた。
ワゴンのハンドルは握ったままだった。

「すみません、すぐに対応致しますので」
そう言うだけ言って、私は職場から逃げ出した。
新郎は真っ白なタキシードを真っ白なクリームで染めて呆然としていた。
床に落ちたマジパン細工とそっくりだった。
スマホを開くと、通知センターが不在着信で埋まっている。
ボタンを長押しして電源を切る。
暗くなった画面に、クリームを付けた自分の顔が映った。
「まぁいいか」
私は先刻、ウェディングケーキを倒した。
ウェディングケーキを倒すと、すっきりと仕事を辞められる。

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