インゴ・スワン「リアル・ストーリー」(58)
第 26 章 最初のアウトバウンド遠隔観察実験 1972 年 2 月 22 日
2月も終わりに近づき、私は ASPR とそこでの作業量に我慢できなくなり始めていた。さまざまな実験が関係していたため、私は多くの実験の繰り返し試行を何度も行っていた。特に問題だったのはキャロル・シルフェン博士の「フリッカー融合」実験と、ジム・メリウェザーが設計した ESPateacher マシンだった。
実験はあまりうまくいっていなかった。ターゲットは従来の ESP カード (ゼナー・カード) の概念に従っていた。つまり、ターゲットは通常シンボルが用いられた。だがシンボルは機械化された光投影ターゲットに変更され、ターゲットとして使用できるものの選択肢は広くなった。
誰もが何かを学んでいることに満足していた。彼らが言うように、私は繰り返し試行で長時間働く「忍耐力」を持っていた。
たとえば、どの色や形が「見やすい」かというパターンが浮かび上がってきた (赤やその他の暖色)。角張った形はたいてい簡単に識別できたが、円形は困難だった。また「見ること」と結果に関して、良い日と悪い日があることもわかった。ある日は「見ること」がひどく、他の日にはほぼ完璧に見えた。なぜだろうか? その理由は7年ほど経ってからようやく分かった。これについては後の章で説明する。
非常に落胆させる要因が2つあった。
1つは、1971年7月以来、主に腹部と顔の周りで 35 ポンド近く太ってしまったことだ。以前は細身だったのに、突然太ってしまい、服が着られなくなってしまった。
招待されたパーティーやディナーが非常に多かったことがたぶん関係しているだろう。だがこの種の仕事をする上で、成功しようと努力しなければならないことや失敗への恐れなど大きなストレスを感じていたのは事実である。
第二に、長距離実験を除けば、実験のほとんどはもはやそれほど困難なものではなかった。たとえ私に忍耐力があったとしても、退屈と超能力の知覚はうまく調和しないこと、そして過去の超心理学実験の多くがこのせいで衰退し消滅したことは重々承知していた。
私はこの退屈さと、退屈さのせいで失敗するのではないかという恐怖を、シュマイドラー博士、オシス博士、そして実際ほとんどすべての人に伝えていた。
ビューエル・マレン、そしてゼルダでさえ、超心理学は現実の生活とはまったく関係のない退屈な実験の繰り返しであると指摘していた。もし人類が超能力を持っているのなら、それは人工的な標的に対する反復的なテストのためではなく、現実の生活で機能するように「設計」されているに違いないと私は感じた。
「ビーコン」実験のアイディアを最初に思いついたのは誰だったか覚えていない。私ではなく、ジャネット、ヴェラ・フェルドマン、そしておそらくジム・メリウェザーだったように記憶している。
いずれにせよ、この実験は ASPR ではなく、後にスタンフォード研究所のハル・パソフ博士とラッセル・ターグによって有名になった。この実験は、後に他の研究グループによって行われたように、簡単に再現できるものだった。またこの実験は「リモートビューイング」という用語を初めて紹介したタイプの実験でもあった。
実験の設計は単純だった。実験者は実験室から少し離れた場所に移動する。彼らは ASPR の実験室に座った被験者の「ビーコン」※として機能する。
※ビーコン(Beacon)とは、一定の時間間隔で無線で信号を発する装置のこと。元々は灯台からの火によって場所を表す狼煙(のろし)という意味がある。
被験者はビーコンがいる周囲の場所を見ようとする。被験者は「見た」ものについて言葉で表現し、メモ(または絵)を描く。実験者が戻ってくると、彼らのメモやその他の情報が被験者のメモと比較される。
ASPR で働き始めて以来、私はもちろん自分の能力を高めるために努力してきた。
私が行った練習の1つは次のようなものだ。
私はグリニッチ・ビレッジの店や、ショーウィンドウのある店をよく知っていた。
通りを歩いているとき、私は店に着く前にショーウィンドウに何が展示されているかを視覚化しようとする。時には大きな成果が得られ、時にはそれほどでもなかった。
しかしそれは良い練習たった。誰でも試すことができる。ただし、最初の失敗に失望せず、根気よく続けていける限りにおいてである。これは一種の「リモートビューイング」の練習だった。
いずれにせよ、ASPR での新しいアウトバウンド実験は新しい挑戦であり、興味深いものだった。このタイプの実験は OOB シリーズには含まれていなかったため、ASPR がそのような実験を行えるかどうかについて懸念があった。私は新しいアイデアをテストするのに私の時間の50%を割くという提案をし、すでに承認されていた。