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インゴ・スワン「リアル・ストーリー」(66)

第 29 章 ASPR における第 2 の嵐の前の静けさ - 1972 年 4 月 -


3 月下旬から 4 月上旬にかけての ASPR での日々は穏やかで、由緒ある協会を根底から揺るがす第 2 の嵐が間もなく襲来する兆しはまるでなかった。

この期間、実験は急速に進み、私のアーカイブにはこの短い期間を再現するのに役立つ多くの文書が欠落している。この点に関して他の誰かの記憶が貢献してくれればうれしい。

問題の一つは、さまざまな実験に関する文書が山積みになり、毎日コピーを取るのが困難になったことだった。当時はこれに後世の人々が関与することになるとは思ってもいなかった。

ASPR のゼロックス機は何日も故障することがよくあった。私は事務局のファニーに、ASPR はもっと良い印刷機に投資すべきだと提案した。

彼女は目を丸くして、この問題には理事会の承認が必要だとぶっきらぼうに告げた。理事会は絶対に必要な場合を除いて支出を承認することはめったにない。官僚主義と壊れた機械はその後の数年間、あの場所での絶え間ない悩みの種となった。

しかし、毎日ではないにしても、主な出来事の記憶は鮮明だ。

この時期の初めに、8回の OOB 実験の正式なシリーズは終了し、誰もが独立審査員がどう判断するかを緊張して待っていた。審査員が誰であるかは、オシス博士、シュマイドラー博士、そしておそらくベラ・フェルドマン以外には誰も知らなかった。その身元は完全に秘密にされていた。

しかしそれが評判の高いプロの知覚心理学者であり、スケッチと撮影されたターゲットが超能力実験に使用されたものであることは知らされていないことは知られていた。彼女の役割は単に応答スケッチを撮影されたターゲットと照合することだった。

一方、実験の作業量は、主に私自身の要求と関心により、4倍に増えた。ジム・メリウェザーが設計し、彼が改良した装置を使用した「ESPateacher」実験もあった。

シルフェン博士の「フリッカー融合」実験や、「輝度比較実験」と呼ばれる興味深い一連の実験もあった。輝度比較実験からは多くのことを学んだ。

これらの実験から得られた成果は、 後にSRIでの仕事において重要な役割を果たすことになるので、簡単にレビューしよう。

明るさ(輝度)比較装置は、開いた端が写真投影スクリーンのような大きな黒い箱でできていたと記憶している。

スクリーンには、さまざまな形がバックライトで投影され、ターゲットの光の強さは「暗い」「中程度の暗さ」「明るい」「非常に明るい」に調整できる。

ターゲット自体は、スペクトルの紫外線帯域の「暗い光」で光るリンで塗装されている。紫外線の強さは可変抵抗器で調整できる。

ターゲットが強く照らされているか暗くなっているかは、わずかに光る円で示される。被験者が「ヒット」または「ミス」のフィードバックを受けるまで、実験は連続して20回以上実行された。

目的は被験者が暗いターゲットまたは明るいターゲットをよりよく「見る」ことができるかどうかを確認することだった。そのため、明るさ比較実験は、光の値と強さに関係していた。

私の記憶では、装置はメインの実験室とジャネットのダイノグラフ・オフィスのすぐ外のホールにあるジム・メリウェザーの「エンジニアリング・キュービクル」に保管されていた。

この2つの部屋の誰も覗き見ることができないように、スクリーンは部屋の反対側を向いていた。

これらの (および他のすべての) 実験に関して、脳波の記録が取られた。ASPR 作業の主な焦点は脳波の値を特定することであり、単に透視能力やその他の超能力をテストすることではなかった。

最初は明るさ比較実験ではあまりうまくいかなかった。そしてもちろん私はその理由について考え始めた。

日が経つにつれて、私は「OOB ビジョン」または「リモートビューイング」は視力視覚と本質的に同じではないかと考え始めた。

もちろん被験者はターゲットを見て識別しようとするのだが、なぜターゲットだけが見えるのだろうか。「見る」とはすべてを「見る」ことを意味するのではないのか。光線や照射などのすべてを。

ターゲットの異なる光強度の違いからヒントが得られた。光の強度が変わると、ターゲットを「見る」のが簡単になったり難しくなったりする。いずれにしても、すべては光に関することである。物理的な視覚でさえ、光の反射と屈折のさまざまな強度で変化する。

光が反射されていると、私たちは物理的に物を見る。薄暗い光が反射されていると、物は見えにくくなる。そして、光が反射されていない場合は、真っ暗で何も見えない。光が屈折している場合、私たちはそれを屈折させているものはまったく見えず、屈折光線だけしか見えない可能性がある。

そこでターゲット自体だけでなく、私が「見た」と感じたものすべてを報告することにした。結果にいくらかの改善が見られ始めた。

この点で、ある種のブレークスルーが 1972 年 3 月 22 日に起こった。これは後にスタンフォード研究所で制御されたリモートビューイングが開発されたときに非常に重要な意味を持つことになった。

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