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インゴ・スワン「リアル・ストーリー」(51)

第 24 章 ASPR における最初の嵐の背景 1972 年 2 月 


ASPR で最初の本当の嵐が始まった正確な日付は覚えていない。覚えているのは、それが OOB 実験の 2 回目の直後で、知覚が何で構成されているのか、なぜ特定の知覚が「精神的」と呼ばれ、他の知覚がそうではないのかについて疑問を抱き始めた直後のことだったということだ。

私はこの最初の嵐を生き延び、さらに強力な二番目の嵐も生き延びることができた。 どちらの嵐もうんざりするほどひどいもので、それは私の超心理学、ASPR のような組織、そして人間性への信頼を台無しにしてしまった。

ASPR での最初の嵐は私の汚名を招いた。陰謀中毒者は今日でもそれを乗り越えることができない。 それは単純な考えを持つ人々にとって、リモートビューイングの歴史を台無しにする汚名だった。

最初の嵐を少し分かりやすくするために、私はここで脱線して、私が何者であるか、そして私が何者ではないかに関するかなり長い自伝的背景に話を逸らすべきだと思う。私はあまりこのようなことを公にするのを好まないのだが、ここでは私自身について、私が学んだこと、そしてそれをどこから学んだのかについて明らかにしたい。

1971 年 7 月以前、私が超心理学の研究室で働くことを考える前、そしてそのようなことが起こり得るとは想像することさえしていない頃から、私は多くのテーマ、運動、そしてその指導者たち、特に心や精神の発達の問題が関係するものについて研究していた。

私は「心を改善する」ことが非常に重要視されていた世代に属している。このテーマは今日ではもう時代遅れになっているようだ。

私は早い段階で、この「心の改善」は、教育的、集団的な同調圧力を超えない限り、本当の「改善」ではないことに気づいた。つまり単に「良い心を持つ」だけでは十分ではなく、心の在り方を根本的に新しくすることが必要だと考えた。

だが社会常識を超えたレベルにまで心を「改善」しようとすることは、狂気のような世界に足を踏み入れることでもあった(こうした偏見は 1972 年当時はまだ存在していたが、現在ではほとんど根絶されているといってよいだろう)。

言い換えれば、私の若い頃は、常識的な「改善」を超えて心を改善することは「危険なこと」であった。 だからこそ、私はあえてそれを超えようとしたのである。なぜなら、そこには冒険的な興奮があったからだ。

この「心の追求」のために、 私は因習的な環境から抜け出すべく、1958年に陸軍を除隊した後、まっすぐにマンハッタンに赴いた。

私は芸術と絵画の世界の探求も欲していた。そして、この国際的で文化的に豊かな大都市で、私は精神の改善に関して思う存分それらを自由に追求できる環境を手に入れた。

私は元々本の虫だったので、いくらでも本を読んで倦むことがなかった。それに加えてニューヨークでは、あらゆる話題や主題、行動について大小のグループが集まって議論する場があった。その中には書籍の形で発表されたことのないものもあった。私はそれらの多岐に渡るグループに加わって直接交流することができた。

1958 年から 1972 年までは私の人生で最も幸せな時期だった、と遠慮なく言うことができる。その後は、あらゆる種類のストレスによって事態はどんどん複雑になっていった。

私は「精神を改善」するために、まず東洋の伝統を研究する必要があった。東洋では伝統的に物質よりも精神が重視されており、精神の向上にまつわる多くの知恵と教えが存在するからだ。私はそれらを表面的に調べるだけではなく、深く「没入」しようとした。私にはそれに専念する十分な時間があった。

私は探求の過程で、「神智学」と呼ばれるものの提唱者で、東洋と西洋の「精神的な架け橋」と呼ばれることもある、有名なヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー夫人(1831-1891) の教えに巡り合った。 生前、彼女は当時の社会から激しく攻撃された。それでもブラヴァツキーと神智学が西洋世界に多大な影響を与えたことは明らかである。その影響力が衰え始めたのは、神智学の王位継承者と目されていたジッドゥ・クリシュナムルティ(1895~1986)がその地位を放棄した1933年以降である。

ブラヴァツキーが唱えた「心(マインド)」の概念は典型的な西洋の考え方とは根本的に異なっているが、彼女のラディカルな考え方のいくつかは今世紀になって心に関する研究の中で徐々に受け入れられている。

仮に彼女の主張の4分の1だけが有効であるとしても、現代西洋心理学は今日でもまだ幼稚園の段階にすぎない。彼女はまた、現代のフェミニスト運動をもたらしたデリケートなテーマに関する独創的な思想家の一人でもあった。

ブラヴァツキーの著作物 (および他の神智学者の著作物も) の問題の 1 つは、それがあまりに大きく分厚い本であるために、表面的に読み飛ばすことができないことである。 巨大な本がすぐに私の本棚に重くのしかかるようになった。私が神智学についての知識をほぼ理解できるまでに2年かかった。

私はそれらを国連に持参し、昼食時や暇なときに読んでいた。 そこにいた少数の人々はすぐに私を「神智学者」と非難し、私を変わり者と嘲笑した。

ブラヴァツキーと神智学の作品をきっかけに、私は別の「オカルト」の情報源を探求していった。

私の研究対象は、ジークムント・フロイト(1856-1939)の作品にも向けられていた。彼への関心は彼の著書「夢の解釈」によって刺激された。というのも、それが芸術におけるシュールレアリスム運動のきっかけになったからである。しかし彼の作品はまた、心の「地図」とそのさまざまな部分がどのように機能するかを示し、その地図は現代の心理学と精神分析の基礎となった。

あまり知られていないが、彼は「精神分析とテレパシー」(1921)、「夢とテレパシー」 (1922)、「夢のオカルト的な意味」(1925年)という文章も書いている。 精神分析に関する入門講義の中で彼はテレパシー現象を直接扱っている。 彼はテレパシーは人類の古いコミュニケーション方法だったのではないかと考えた(もしそうなら私たちはそれを失うべきではなかったというのが私の意見である。)

国連の同僚や他の友人たちは、私が少なくとも「正統的な」読書に戻ったことに安堵のため息をついた(具体的な読書の中身は知らずに)。いずれにせよ、しばらくの間、私はフロイト主義者であり、非常に熱心に読んだ。

次には当然のことながら有名なスイスの精神分析家、カール・グスタフ・ユング (1875-1971) の著作が登場する。彼の膨大な成果は、精神だけでなく、芸術と美学、そして最終的にはオカルトにも関係していた。 私は彼の厚い本のうち 15 冊に投資したが、それは当時 1 冊あたり約 8.50 ドルで販売されていた。現在、ほとんどの本が中古で約 200 ドルで販売されているので、これは少なくとも良い金銭的投資だったといえるだろう。

ユングは「集合的無意識」の概念で最も有名である。単純化するとこの概念は、集合的無意識は一人の個人だけに関係するものではなく、国全体、そして人類全体に関係するものであると考える。

集合的無意識は、先天的な本能と、認識とその表現の原始的な形態で構成されており、これらの原始的な形態は集合的種の無意識の「原型(プロトタイプ)」と呼ばれている。

これらの原型は、母の原型、賢者の原型、性的原型など、すべての社会で発生し、誰もがそれに応じて反応する。マリリン・モンローは(髪をブロンドに変えた後は)官能的または性的ヴィーナスの原型を体現したものであり、普遍的な反応を呼び起こすと考える人もいる(私も完全に同意する)。

ユングはその膨大な作品を通して、フロイトよりもはるかに複雑な心の「地図」を描いている。 「集合的」概念は、私たちの種は無意識のうちに「心」に関して多くの共通点を持っているとみなす。

私は後にユングの研究から私たちの種の「ハードドライブ」に存在する固有の能力の概念を導き出した。人間のバイオマインドの超能力はそのほんの一部にすぎない。そういうわけで私は一時期ユング派だった。

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