バシバシ

ここ三年、毎朝の混雑した電車に安らぎなど存在しなかったが、それでも幾ばくかの興事はあった(興事とは、「面白いこと」を意味する今作った言葉です)。

座席に座ってむやみやたらと足踏みをするおじさんの、その右足の下を猛スピードで通り抜ける、なんらかの虫。
車掌の声のあまりの涼やかさに、前後左右から一斉に「おっこれは」という気配がする瞬間。
突然おじさんの足の甲に座って母親にド叱られる少年。
父親にだっこされながら正確に私の若白髪だけを抜いた幼児。


そんなわかりやすくおもしろい出来事よりも笑いを誘うのは、もちろん睫毛である。


年度始めはかなりの頻度で電車が遅延する。そして、都心からのしわ寄せもあって、大層混雑する。
そうすると、隣に立つ人間との間隔がほぼない。さらに、隣の人間と身長が近いと顔同士の距離はありえないくらい近くなる。

もうこの時点でおもしろい。今の路線に乗りはじめて何年たっても、考えれば考えるほどおもしろくなる。
恋人でもこんなに近寄らないだろうというくらいの距離で他人同士がくっついて、なにも気にしていないという顔でしれっとしている。
不条理ギャグの使い手でも、ここまでとちくるった状況は思い付かない。

そこでさらに、睫毛である。
視界の端で、隣のにーちゃんの長い下向き睫毛がパシパシいっている。
隣のねーちゃんの整備したての巻き睫毛なんかもうバッシバシいっている。

人間の顔にまとまって生えた短くて硬い毛の隊列が、上にいったり下に行ったりする。上と下から二隊が集合しては解散、集合しては解散する。
そんなのが視界の端に三つも四つも見える。


意味がわからない。


私が電車で目をつむっているのは眠いからではなく、睫毛を見ないようにするためだ。
見ていると笑うからだ。

最終的には自分の睫毛の動きまで可笑しく思えてくるので、目はつむっておくに越したことはないのである。

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