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死の後、数日間の話

今回は、「人は死んだ直後どのように過ごすか?」についてお話ししたいと思います。

〔この記事は筆者ブログからの転載です。元記事https://ksnovel-labo.com/blog-entry-801.html

臨死体験は生きている人の話


よく「臨死体験」を話してくださる人はいらっしゃいます。
お花畑を見たとか、先に亡くなった家族を見たとかいうものです。

実は先日、私の義父が危篤となってから生還したのですが
「手術中の自分の体を天井近くに浮かび上がって眺めていた」
という体験を話してくれました。
幽霊話など日ごろしない、現実主義の義父です。嘘をついているとは全く思えない。

私も全身麻酔の経験がありますが、義父の体験とは全く違って麻酔を吸った瞬間に意識ゼロでした。生きている人間が麻酔を受ければ、手術中に夢を見られる状態ではないことが分かります。
やはりこういう体験を話してくれる人は、手術中に魂が体から抜けているのでしょう。

このように、生きている者が話す「臨死体験話」はけっこう多いけれど、死んだ後のことを話してくれる死者はなかなかいません。
亡くなっているから話せない。当たり前ですが。
また仮に霊感のある人が幽霊に話を聞いたとしても、その霊魂はたいてい現世に留まっている方なのですよね。
「地縛霊の生活」というものが一般的な例として参考になるのかどうかについては、はなはだ疑問です。

一般的な死~転生の過程を教えられる可能性があるのは、前世の記憶がある者しかいないでしょう。
死んで・生まれ変わった、という過程を通って来た記憶があるので、大多数の人がいずれ辿るはずのその道を教えることが出来るはずです。

中間生


そんな「前世の記憶」がある人々の話をまとめている良書が、お馴染みブライアン・L・ワイス博士の『前世療法』シリーズです。彼は輪廻転生というものがあるかないか、という検証に耽溺せず、患者の話をそのまま記録されているので参考になります。

その本で書かれているのが、「中間生」という状態です。

魂は肉体が死んだ後に体から抜け、生と死の狭間のような場に辿り着きます。
これが「中間生」の状態。
私も直前の前世ではこの「中間生」の記憶を持ちます。

臨死体験には生きていた時の教育や文化経験により様々なバリエーションがありますが、完全に死んだ後となる「中間生」は、世界中どんな人種でも似たような体験となるようです。

それは
・直前の自分の人生を振り返り
・守護霊や指導霊からアドバイスを与えられる
というものです。

中間生にいるときの感覚は、直前の人生の生き方にもよるでしょうが概ねこのような説明で共通しています。
・幸福感があり
・痛みや苦しみ不安が一切なく
・人生の全てに意味を見出す
生きているときに気付かなかった凄まじい愛情を知ることもあります。

いわゆる「魂の伴侶」、ソウルメイトの存在にはここで気付きます。
“指導霊”というものは、姿形は見えません。
声が天から降って来るような感じです。
一般的に「神様の声」としてイメージされるものです。
ただ、声といっても音声ではない点、注意してください。
意味だけが理解出来るメッセージです。
高級霊――地上を卒業して久しい先輩方の世界に、言語はありません。
これは私の前回の場合。他の方の話によれば、姿のある身近なガイド霊に付き添われて死後世界へ赴く場合もあるようです。前回、私が声を聴いた霊は一般の「ガイド霊」よりも高次元で広範囲の霊と思います。「地球を担当する指導霊」くらいの壮大な存在)

もし催眠中や夢の中などではっきり言語としての音声が聞こえたら、ちょっと「危ない」と思ったほうがいいでしょう。
脳の機能のエラーによる、幻聴の可能性があります。

※幻聴は脳のシステムエラーですから、耳という器官を介することなく脳内で直接に音が作成されます。ですから、はっきりとした音声が本当に聞こえるようです(つまり本人にとっては幻聴などではなく本物の音なのです)。幻聴かそうでないかは、「音が聞こえるか否か」で区別すると良いです。  

指導霊が行うアドバイスは、たいていその直前の人生の意味を教えるためのものであることが多いようです。
「その人生の目的はこういうものだった」
「お前はこの人生でこうすべきだった」
「この人生でクリア出来なかった課題はこういうものだ」
等々。
学校の先生の答え合わせみたいな感じです。

ちなみに優しい先生です。
優しさを通り越して完全なる寛容の意識を感じます。
指導霊に感情はありませんので悪いことをしても叱られることなどはないでしょう。
ただ生前に他人を虐げるなどのひどい罪を犯していた場合は、
「残念。もう一度やり直し」
と事務的に告げられるのではないでしょうか。

人生は100%自己責任です。
閻魔大王など裁いてくれる者も、神もいません。だからこの「中間生」で指導霊や神様から罰を降されたり、地獄へ落とされることはありません。
ただし罪を犯した人にとって、次に生まれる人生が「地獄」であろうとは言えます。

あるいは……これは想像ですが、善行を重ねて人生を卒業した者が高次元の場に昇って高級霊となる、と言われているのと同じように、悪行を重ねた者が落ちる「地獄」に近い低次元の場があるのかもしれません。
それが昔から言われていた
「天国」「地獄」
の真相かな、と思います。
つまり、ヨーロッパ的な死後世界と仏教的な輪廻転生思想、あわせたものが正解に近いのだと思います。

転生し人間界へ戻って行ける魂には、まだ可能性が与えられていることになります。

筆者の体験


では、具体的に人は死の直後にどのような体験をするのか?
ここからは自分の体験を手がかりとして考えてみたいと思います。

以下は自分が観た死後の記憶です。
小説などにも書きましたので「もういいよ」と思われるでしょうが、小説はフィクションであって正確ではないので、「神秘体験の記録」として求められる方はこの記事を参考にしてください。

(死に近付き、肉体が遠くなっていく。意識が高く昇って行く感覚)
自分を呼ぶ者たちの声がしばらく聞こえていた。
その声が少しずつ、少しずつ遠くなっていった。

気付けば空と地の間のような場に居た。
見渡す限り空が続いていた。
上も、下も、澄み切った空。淡い青。

(この時点でもう完全に死んでいると思います。地上と天上の間にいるようです。物質的な高所とは違います)

自分の体を見ると生きている時と同じ服装をしていた。

(肉体はないのですが、体があるかのように振る舞うことが出来ます。私は日常着ていた衣服で、立ち姿勢でいました。なお普通に肉体があるときのように目の位置から自分の体を見下ろすのではなく、遠くから自分の姿全体を見ることが出来ます)

服を眺めながら自分の死んだ時の年齢、職業など、生前のことを思い出す。(確認する)
目の前の空がスクリーンとなったように、人生の映像が映し出されて一気に流れる。
ここで全てのことを思い出す。

指導霊からのメッセージが聞こえた。
「お前の人生に一切の罪はなかった」……
生前、自分はたくさんの人を殺したため罪があると思って非常に苦しんでいたが、死後の意識から眺めれば罪はないと知った。

先ほどまで生きていた頃には辛かった全てのことが、もう全く辛くはないと感じていた。
痛みはなく、苦しみも一切なく、ただ幸福に包まれていた。
空のスクリーンに大きく、生前の知り合いの顔が映し出された。
凄まじい愛情が感じられる。
彼とは長い転生の間で深い絆で結ばれた、“魂の伴侶”だったと知った。
……略

実はこの後も指導霊との会話は続いていました。
私は
「もう人生には満足した。生まれなくてもいい」
と言ったのですが、指導霊から
「まあまあ、そんなこと言わずに。もう一度くらい生まれてみないか?」
などと諭されて(笑)生まれることになったという経緯です。

どうやら私は疲れ切っていて、現世に生まれる気力が本当になかったようです。
そこを「まあまあ。そう言わず」などと指導霊が諭すのは、なんだか漫才のようで、本当にあり得るのか?とちょっと首を傾げてしまうのですが。
現状の人生を振り返ってみれば「さもありなん」です。
(疲れていたから休ませていただくために生まれたのだと思えば筋が通る)

ところでこの体験から興味深いな、と思ったのは、人は死後も生前の服を身に付けているらしいということでした。
生前の服とは「最後に着ていた服」、ではないのでご注意を。
「生前のその人を象徴する服」です。
つまり、健康だった時に最もよく着ていた服、気に入りの服を着ているようです。

 →その後、そうではないかもしれない(実際に普段着で埋葬されたかもしれない)と気付きました。これ以外に中間生の記憶が無いのでどちらが正解か分かりません、すみません。

それから驚くのは、死後しばらく地上の人々の話し声が聞こえていたらしいことです。
どう考えても肉体は終わり、耳の機能などないはずなのに、地上の人があれこれ話していたことが死者の自分に届いていたフシがあります。
たとえば、死後の自分について誰かが評価した言葉。
それから、戒名 諡号(その意味)。
これらの話し声が、自分では地上の人々の声だとは気付かないままに記憶されています。

どうも昔からよく言われているように、
「死者の枕元で遺産分けの争いをするな。本人が聞いているから」
というのは本当らしいです。

遺体を焼いても無駄です。耳で聞いているわけではないので、死者には聞こえます。
だからお葬式で亡くなった人の悪口も絶対に言わないように。死者にその声はしっかり届いていますよ。

さて、ではいつまで生前の服を着ていたり、地上の声が聞こえているのか?というと、これが一般に言われているように49日という日数が目安になるのではないかと思います。
この一ヶ月半前後とはたぶん、生まれ変わりの準備に入る頃までの期間です。

前の人生から次の人生へ生まれ変わる場としての「待機場」に移れば、意識がストップしますので、もう地上の声は聞こえないでしょう。姿形もなくなるから、前の人生の服もここで消えるはずです。

生まれ変わりの「待機」をしている間、時は感じません。
(正確に言うと時間のない場にいるのだと思います)

百年以内に生まれ変わる魂もいるいっぽうで、千年待ち・二千年待ちの魂もあると思います。
その待ち時間の感覚はないということです。
私もいきなり二千年近く時空を飛ばされて来たというイメージです。

なお、一般的には天国から地上を見下ろして親を選ぶ様子が語られています。
私の場合は、今世の親を選んでいる記憶はありません。
上にも書いたように指導霊に「まあまあ」と諭されて生まれたくらいなので、自分から積極的に親を選ばなかったのだと思います。
本人にやる気がないので、いざ生まれる時は強制で飛ばされた、のかもしれません。
この部分だけ特殊事例ですので参考になさらないでくだい。笑

ほとんどの方は「生まれたい!」と強く望み、人生を楽しみにして生まれて来ています。
生まれるチャンスが与えらえる機会は、オリンピック選手に選ばれるように幸運なことなので、生まれる意気込みは相当のものです。

両親や生まれる家庭も、当然ながら自分自身で必死で選びます。
もちろん不幸な家庭に生まれる魂もあるでしょう。
それすら選んで生まれて来ている、と言うのが真相です。何らかの課題クリアのためにです。

今現在、死にたいほど苦しんでいる方は「自分で望んで生まれて来た」と考えるのは抵抗があると思いますが、自ら理由あって選んだのだと思えば人生全てのことに意味があると言えます。

補足

ただし「自分で選んで生まれてきた」と言っても、たとえば虐待をする親のもとに我慢して留まる必要はありません。その虐待から逃れて自分らしく生きること、その選択をする勇気を出すことが人生課題であると考えられます。

また虐待をする側、暴力をふるう側も、被害者に対して「お前が選んだのだから受け入れろ」と自分が暴力をふるうことの言い訳として輪廻思想を使ってはいけません。暴力をふるう側はそれを行わない自制を養うことが人生課題であることは明らかです。もしその暴力の誘惑に負けて、幼い我が子を殴って殺してしまったならば、来世以降に相応のツケが廻ってきます。自己中心的に行った悪事が「罪を悔いて、神に祈れば消える」などと甘く考えてはいけません。宇宙法則、自然法則はもっと遥かに厳しいものです。

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