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【今日のニュース】モーリシャス 中国系移民3万8000人の事実

華人はモーリシャス経済の 10%を占める

モーリシャス総人口に対し2.9%が華人


タンカー座礁で話題になっていますが、まず場所の確認

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こちらがタンカー座礁の様子

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中国系移民の現状

モーリシャスの人口 120万人

内中国系3万8000人(2.9%)




世界各地に華人が広く分布していることについて,中国では「海水の至ところ華僑あり」と言われてきた。

1810 年,ブラジルで茶の栽培を始めるためにサンパウロに華人労働者が導入されたのが
新世界におけるおそらく最初のアジア人コロニーであり,インド洋においては,1830 年に最初の華人がモーリシャスのポートルイスに現れたと述べている。

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モーリシャスでは,後述するようにインド系住民が多数を占める

しかし,モーリシャスの華人社会に関する研究は少ない。


ポートルイスのチャイナタウンの地図を作成するとともに,華人団体,廟,華字紙の発行所,
華人個人などからの聞き取りを中心にフィールドワークを実施した。

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2.モーリシャスの概観

地理



モーリシャスはマダガスカル島の東約 900km に位置する。モーリシャスは 29 の島々からなり,国土面積は 2,040km2
(東京都 2,189 km2)で,主島であるモーリシャス島の面積は
1,865km2(香川県は 1,877km2)である。モーリシャス島は,インド洋ではマダガスカル島(587,041km2)に次ぐ面積を有する島である。
ポートルイスは,モーリシャス島の北西部沿岸に立地し,2011 年の人口センサスによれば,


総人口 1,236,817 人のうち,モーリシャス島に 1,196,383 人(総人口の 96.7%),モーリシャス島の東 550km のロドリゲス島に 40,434 人が居住している


モーリシャス島は,マダガスカル島およびレユニオン島とともに,マスカレン諸島を構成するが,マスカレン諸島の他の島と同様,火山性起源の島であり,緩やかな起伏をもつ地形が卓越し,残丘地形としての孤立峰の岩山が散在し,特異な山地景観がみられる。沿岸はほぼ全域サンゴ礁に覆われ,波の静かなラグーンやビーチが形成されている
モーリシャスは高温多湿な亜熱帯海洋性の気候で,



11 月から 4 月が夏季,5 月から 10 月1846 年以降の人口センサスでは,
ジェネラル(General),華人(Chinese),インド系(Indo-Mauritian)に分類されてきた。
インド系はさらに宗教からヒンドゥーとムスリムに区分されてきた。ジェネラルは卓越するインド系移民との区別の含意から用いられるモーリシャス特有の人口区分カテゴリー語であり,クレオール(Creoles,白人とアフリカ系黒人の混血)とフランス系住民(Franco-Mauritians)
を併せた概念である。


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宗教、民族

1983 年以降の人口センサスでは,所属コミュニティの調査がなされてい
ない。所属コミュニティの最後の調査が行われた 1972 年の人口センサスをみると,総人口826,199 人のうち,ジェネラルが 236,867 人(総人口の 28.7%)であるのに対し,ヒンドゥー教徒が 428,167 人(同 51.8%),イスラム教徒(Muslim)が 137,081 人(同 16.6%),華人が24,084 人(同 2.9%)であり,インド系が総人口の 68.4%を占めた




湾側の推計によれば,モーリシャスの華人人口は 3 万人(2011 年)であり,総人口の 2.3%を占める。
モーリシャスの華人は 3 万人あまりであり,その 85%は広東省梅県出身の客家人であり,華人の 15%は広東省の南海および順徳出身である





モーリシャスの宗教別および言語別の構成を,2011 年の人口センサスは

ヒンドゥー教徒 48.5% , ローマ・カトリック教徒 26.3% , イスラム教徒 17.3%,その他のキリスト教徒 6.4%


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言語

などとなっており,インド系住民の多さを反映している。次に,家庭内での使用言語別の構成をみると,国民の多くは複数の言語を家庭内で使用している。モーリシャスの公用語は英語であるが,クレオール語(フランス語を基本に,英語やアフリカの諸言語の単語を用いて簡略された言語)

が広く使われている。クレオール語のみの使用者が全体の 40.5%,ボージュ
プリー語(Bhojpuri,インドで使用されている言語)のみの使用者が 19.3%,フランス語のみの使用者が 1.6%,タミル語のみの使用者が 1.5%,中国語のみの使用者が 1.0%,英語のみの
使用者が 0.1%などとなっている。 その他にクレオール語とフランス語の併用者が 2.4%,クレオール語と中国語の併用者が 0.5%,クレオール語とタミル語の併用者が 0.4%など,複数の言語を併用している者が少なくない。




経済



モーリシャスの経済をみると,植民地時代からサトウキビ栽培と製糖業が重要な役割を果たしてきた。今日でも,郊外では広大なサトウキビ・プランテーションが広がっている


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モーリシャスは,1968 年,イギリス植民地から英連邦内の王国として独立し,サトウキビ栽培・製糖業に依存するモノカルチャー経済から脱出するために,モーリシャス政府は,1971 年にアフリカ最初の輸出加工区を設立し,輸出指向型の外国企業を誘致し,繊維・縫製業が発展した。これらの産業とともに,美しいビーチリゾートを活かした観光業も重要である




2013 年度には,993,106 人の観光客がモーリシャスを訪れ,
国別にみるとフランス(24.6%),レユニオン(14.4%),イギリス(9.9%),南アフリカ(9.5%),ドイツ(6.1%),インド(5.8%),中国(4.4%〔香港を含む〕)の順であった

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1.モーリシャスの開発と移民



モーリシャス島は長く無人島であったが,古くからインド人水夫やアラブ商人の間では,ディナロビン島の名で知られていた。1513 年,ポルトガルの海軍提督が同島を「発見」し,ヨーロッパ船舶の食料・水の供給地となった。1598 年,オランダが同島の占領を宣言し,マウリティウスと命名した。


歴史


オランダはヨーロッパとアジアの中継地点として,

モーリシャスに着目したが,南アフリカのケープ植民地(ケープタウン)の確立(1652 年)により,食料補給基地としてのモーリシャスの地位は低下した。






1639 年,バタヴィア(現ジャカルタ)からサトウキビが導入され,入植が試みられたが,オランダ東インド会社は,1706 年に同島の放棄を決定した。1715 年,フランスが同島を占領し,フランス島(Ile de France)と名付けた。プランテーションのフランス人農園主は,フランス東インド会社を介して,同島にアフリカ奴隷を導入し,サトウキビ栽培を軌道に乗せた。


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英仏戦争の中,1810 年,イギリスがモーリシャスを占領,1814 年のパリ条約により,正式にイギリスの植民地になった。同島はフランスからイギリスへ譲渡され,モーリシャスと改名された。





1835 年の奴隷解放令施行を見据えて,その前年の 1834 年,プランテーション農園主は,最初のインド人契約労働者を導入した。その後,インド系移民が増加し,1846 年には,インド系移民が総人口の 3 分の 1 に達した。
イギリス植民地時代には,奴隷制が廃止され,インド人契約労働者が大量に移入され,サトウキビ・プランテーションおよび製糖業が発展した。イギリス領となった後にも,法律,学校制度,宗教施設などは,フランス植民地時代のものがほとんど変更せずに受け継がれた。このため,国民の多くは英語よりもフランス語を主に話し,地名のほとんどがフランス語起源であ
るなど,フランス文化の影響は現在でも色濃く残存する。







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2.華人社会の形成


次に,華人に焦点を当て,モーリシャスにおいて,華人社会がいかにして形成され,変容してきたかについて検討する。
「非洲華工」(アフリカ華人労働者)の章が設けられ,その中でイギリス領モーリシャス島の項もある。華人に関する文献資料が乏しい中で,ここでの記述は重要である。これらの主な内容をまとめると,以下のようになる。
ポルトガルは,1505 年にモーリシャスを占領し,アフリカから導入した黒人奴隷を用いて港や倉庫を建設した。オランダ東インド会社は,ポルトガルからモーリシャスを奪取した。
モーリシャスにおけるサトウキビ栽培技術は,オランダ東インド会社がバタビアから連れてきた華人によりもたらされたものである。1715 年,モーリシャスはフランス東インド会社の手に渡った。フランス植民地時代に,モーリシャスのプランテーションは大いに発展し,サトウキビのほかに,綿花,インディゴ,クローブ(丁香)などの熱帯作物が栽培されるようになった。



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18 世紀後半,サトウキビ・プランテーションや製糖工場の労働者は,アフリカから連れてこられた奴隷やインド人であった。
1810 年,イギリス東インド会社がモーリシャスを占領した際,この島はすでに重要なサトウキビ産地になっていた。1824 年前後,現在のマレーシアのペナンやシンガポールから数十人の華人労働者が,モーリシャスに導入された。以後,イギリスやフランスのプランテーション経営者は,シンガポールやペナンから華人労働者を導入するようになった。華人労働者が最初に
モーリシャスに来た際,プランテーションで働いていたのは奴隷であった。イギリスが奴隷制度を廃止した 1834 年には,コルカタなどから連れて来られたインド人が数千人いた。




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現在のオーストラリアのイギリス領ニューサウスウエールズおよび南米のイギリス領ギアナに華人契約移民が導入される以前,すでに 1843 年,シンガポールとペナンから最初の華人労働者が,モーリシャスに移入され,サトウキビ・プランテーションや製糖業に従事した。
1921 年,モーリシャスの人口 316,681 人のうち,インド人は 264,884 人,華人は 6,820 人であった。イギリス植民地では,マレー半島を除き,一般に華人よりインド人が多いが,モーリシャスも同様の状況で,南米のギアナやトリニダード・トバコとよく似ていた。








華人は広東貿易で活躍したフランス商人のパートナーとして,モーリシャスに来たが,華人のモーリシャス定住の基礎を築いたのは,イギリスの初代総督のロバート・ファーカーであった。
ファーカーはモーリシャスに来る前,ペナンに赴任しており,その際,華人労働者を移入した経験を有していた。彼はオランダ領東インドの華人カピタン(甲必丹)制度に似て,一人の華人に同郷人を統率する責任を負わせる方式を採用した。この役割を担った最初の華人が福建出
身の陸才新であった。陸才新は 1826 年,5 人の華人を中国から連れてきて,彼らの後見人となった。1839 年,陸才新はポートルイス西郊に関帝廟を建立し管理委員会を設置し,華人への援助・管理などにあたった。



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サトウキビ・プランテーションの労働に従事していたのは,当初はアフリカから移入した奴隷であり,1835 年の奴隷解放以後の代替労働力はインド人労働者であった。華人の経済活動は交易と職人仕事に限定された。19 世紀末,華人人口の 81.3%は商人であった。


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1850 年以降,インド人労働者を移送する船に便乗して,モーリシャスに来る華人が増加した。
1860 年までモーリシャスに来た華人は福建人と広東人であり,両者は平和に共存していた。
しかし,1860 年に最初の客家人が到来し,広東人と対立するようになった。







同年,中国では客家人の洪秀全が主導する太平天国の乱が発生し,清朝政府により鎮圧され,1860 年の北京条約締結以降,客家人の出国が加速化された。客家人は Motais Street に関羽をまつる関帝廟を建立し,梁氏堂(Liong See Tong)を設立した。


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客家人は果敢で進取的であり,積極的な商業活動を行い,広東人の反感をかった。1877 年,モーリシャスへの入移住制限が撤廃されると,華人の到来が増加し,その大半は客家人であった。
広東人は南海(現在の広東省仏山市南海区)と順徳(現在の広東省仏山市順徳区),すなわち南順出身者が多かったが,広東人と客家人の対立は,1903 年,関帝廟の代表をめぐって暴力沙汰に発展した。







両者は中国本土においても,先住の「本地人」と後来の客家人の間で衝突が
あり,その影響も受けていた。1906 年,最高裁判所の裁定により,広東人,客家人,福建人各5 人による 15 人委員会が関帝廟の管理を担うことになり,共同指導体制になった。1909 年に設立された華商公所も,共同指導体制で運営された。



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3.華人社会の変容と特色



次に,モーリシャスの華人社会の変容を,社会,文化,経済の各側面から考察する。
まず,方言集団の構成について検討しよう。張ほか主編(1990:20-21)によれば,早期のモーリシャスの華人の祖籍は,広東の南海および順徳が多く,その次が福建,客家人であった。前述したように南海および順徳は,あわせて「南順」とよばれた。



客家人は広東の梅県(現在の広東省梅州市梅県区)が主で,そのほか豊順,蕉嶺,興寧であった。早期の福建人の多くはモーリシャスの人びとと通婚,同化した。1990 年当時においてもモーリシャスの華人は,客家人が主であり,客家人の 3 分の 2 あまりは梅県人で,その次は南海人,順徳人であった。


モーリシャスの華人は,フランス語系クレオール語,英語,および客家語を話すことができる者が多い。



次に,華人の団体(社団)について検討する。まず,地縁的な団体では,仁和会館と南順会館が代表的なものである。仁和会館は,1872 年に客家人によって設立された。1990 年代,会員数 200 人あまりで,その多くは商店主や企業の経営者である。



仁和会館は客家人優位のモーリシャスの華人社会において有力な団体で,養老院も有しており,歴史が古く,チャイナタウンの中心に位置しており,財神宝殿とよばれる廟も付設されている。
南順会館は,広東の南海,順徳を祖籍とする華人によって,1859 年に設立された。その前身は,ポートルイスの関帝廟の忠義堂である。1990 年代初期の会員数は 3,000 人あまりであった。


現在,南順会館は,シャン・ド・マルス競馬場の近くの住宅地域に位置している。そのほかの地縁的団体として,1968年に客家人の団体として設立された客属会館がある。設立初期の会員数は 300 人あまりであった。





非地縁的な組織としては,華聯会がある。中華文化の弘揚,華人の聯誼,交際提供場所などを目的に 1976 年に設立された。1991 年の会員数は 609 人で,公務員,弁護士,エンジニア,会計士など華人エリートの組織の一つである

1988 年に設立された華人社団聯合会は,南順会館,広東会館をはじめ華字新聞社,学校など 24の団体会員から構成されている。
宗教的団体組織として最も重要なのが,前述した関帝廟である。1842年に,ポートルイスの南西郊外のレ・サリーヌ地区に建立された。陸才新ら 5名の華人リーダーが管理し,華人の集会の場であった。

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このことは,経済発展の好条件となってきた。基本的には,政治はインド系が実権をもっており,経済は少数の白人が大きな力を有しているという構図になっている。






1968 年の独立以前,モーリシャスの経済は,製糖業に大きく依存していた。この分野では,フランス系モーリシャス人が有力であり,インド系は小規模なサトウキビ農園を経営し,華人は小売業を支配していた。独立後,モーリシャスは経済多角化政策を進め,1971 年には,台湾とシンガポールをモデルに輸出加工区を設けた。その結果,ヨーロッパ共同体(現 EU)やアメリカ市場へ,毛織物,衣類,繊維,履物,テレビ,冷蔵庫,玩具,プラスチック製品を生産した輸出加工区は,製糖業をしのぐ雇用創出産業,輸出産業に成長した

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華人の職業は商業が主であり,卸業,工業,貿易,商務代理などが多い。華人青年は欧米留学の後に帰国して,多くは医師,会計士,弁護士,裁
判官などの社会的要職に就く者が少なくない。台湾との関係では,モーリシャスは遠洋漁業の重要な補給基地の役割を果たし,台湾漁船への関連サービスも重要である



最近の傾向として,中国資本の進出が目立つ。台湾発行の中華経済研究院編は,近年中国の国営あるいは民営の企業のモーリシャスへの進出が著しく,綿紡績,縫製業,不動産業などのほかに,医師,会計士,エンジニアなども進出していると述べている。

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観光業の発展に伴い,中国企業や最近中国から来た新華僑の観光業への進出は,景観的にも認められる。ポートルイス港に 1996 年に建設されたショッピングセンターであるル・コーダン・ウォーターフロント・コンプレックスには,大規模な中国料理店や華人経営のみやげ店などが入り,中国人観光客が訪れている。モーリシャス島の北部地域のリゾートタウンであるグラン・ベのショッピングセンター内には,竜の飾りが掲げられていた



新華僑の増加は世界的にも注目されるが,モーリシャスにおいても増加している。アフリカの 53 ヵ国,華人人口,約 75 万人のうちの 90%前後が改革開放後中国から海外に出た新華僑で,その多くは浙江,広東,福建などの省の出身である。


最多は南アフリカで約 30 万人,うち 10 万人は新華僑である。マダガスカル 6万人(うち新華僑 1 万人),ナイジェリア 5 万人(うち新華僑 2,100 人),次がモーリシャス 4万人で,うち新華僑は 1 万人と推測している。




4.ポートルイスおよびチャイナタウンの周辺



2011 年の人口センサスでは,ポートルイスの人口は 118,431 人(同国人口の 9.6%)を有し,
モーリシャスの最大都市であり華人の最大の集住地域である。


2009 年のモーリシャスの華人は 38,000 人で,総人口の 2.9%
に相当し,華人の半数以上は首都ポートルイスに居住している。華人の経済活動では商業が中心であり,華人はモーリシャス経済の 10%を占めると述べている。





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イギリス植民地時代に丘の上に建設されたアデレード砦に上ると,ポートルイスの中心部と港湾を見晴らすことができる。アデレード砦がある丘の周辺には,「吉祥如意」や「福」などの文字を書いた赤い紙を貼ったり,対聯を玄関に掲げた華人の住宅がみられる。




ポートルイス港は砂糖の輸出港として繁栄してきた。港湾の近代化も進められ,1996 年には,前述したル・コーダン・ウォーターフロント・コンプレックスが建設され,現地の富裕層や外国人観光客向けのショッピングセンターになっている。ここには,大海京酒家のような大規模な中国料理店やカジノも設けられ,記念写真を撮る中国人観光客の姿がよくみられる


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モーリシャスにおける華人社会の変容とポートルイスのチャイナタウンの地域的特色



プラス・ダルム広場周辺には多くの銀行が集中し,ポートルイスは,ア
フリカではヨハネスブルクに次ぐ金融の中心地ともいわれる

セントラル・マーケットは,野菜・果物・魚・肉の 4 棟から
構成されており,大勢の人出でにぎわっている


セントラル・マーケットの周辺から,東北部に向けて華人商店が多く見られ,チャイナタウンが形成されている。また,前述したように,ポートルイスの中心部から西へ 1km あまりの住宅地域に,関帝廟と客家人の仁和会館の廟が位置している。この仁和会館の廟の横には,孫中山像と海外華人記念碑が設置されている。市中心の北西には広東の南海および順徳出身者に
よって建てられた南順会館がある。



習国家主席がモーリシャスへ初の公式訪問、「一帯一路」への協力を確認

2018年08月02日

中国の習近平国家主席は7月27日から3日間、モーリシャスを初めて公式訪問した。今回の中東・アフリカ5カ国歴訪で、アラブ首長国連邦(UAE)、セネガル、ルワンダ、南アフリカ共和国に続く最後の訪問先となった。

モーリシャスのプラビン・ジャグナット首相との会談では、7億5,000万モーリシャス・ルピー(約24億7,500万円、1ルピー=約3.3円)の無償資金協力が約束されたほか、「一帯一路」政策への協力に関する署名がなされたと報じられている。習国家主席はモーリシャスの歓待に謝意を伝え、「今回の公式訪問は2国間の友好関係を強固にするものだ」と強調した。ジャグナット首相は中国による支援に感謝の意を述べるとともに、9月に北京で開催される第7回中国・アフリカ協力フォーラム(FOCAC)への参加の意向を表明した。

モーリシャスは19世紀に中国からの移民を受け入れた歴史があり、現在も1万人以上の中国系が住んでいるといわれている。また、モーリシャスは1972年、毛沢東時代に中国と国交を樹立しており、習指導部もモーリシャスとの外交関係を引き続き重視しているとみられ、両国は自由貿易協定(FTA)の締結に向けても交渉中だ。中国はモーリシャスにとって最大の輸入相手国で、主要輸入品目は衣料品、電気製品、金属。モーリシャスからは中国向けに主に特産のサトウキビを輸出している。中国はジンフェイ経済貿易区に投資しているほか、国際空港や病院、ダム建設事業に資金供与している。今回の習国家主席訪問の機会に合わせ、2国間の租税協定、投資促進保護協定、労働協定が締結されたと報じられている。

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