よそ者としての役割
外国で暮らしていると、その国の社会から見てよそ者であるがゆえの役割を、自分に割り当てられるときがあるように思います。社会の内部の人が言ったりしたりすることができないことを、よそ者ゆえに言ってしまえる、やってしまえるので、それを期待されることがあります。しかし、そのよそ者の役割を誰もが演じれるかと言えばそういうわけでもなく、当地の社会に溶け込まず、(この国の人から見て)外国人のコミュニティーだけに属していたら、そういう役割を果たす機会がありません。また、この国の社会の内的な論理をまったく理解していない人にも難しいように思います。私にはよそ者ゆえの自由さが与えられているのですが、自分がこの社会内の人たちとどう違っているのか、自分に何が求められているのかを理解しながら、おそらく自分が社会内にいたとしたら馬鹿だと思われたり、無礼だと思われることを、いい加減でやらないといけません。そこでは私にこう行動してほしいを思っている当地の人との暗黙のコミュニケーションがあって、それにしたがっていることになります。こうした言動を取る理由は私自身には無く、当地の人の期待のほうにあるのですから。
(2022年2月2日、アメーバブログに投稿した記事)
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