他者の悲しみによりそうには。
…なんという偉そうなタイトルだろうか。だけどちょっと思った事を聞いてほしいと思いまして。
自分の経験から言わせていただくと、感情のコップの淵から溢れるほどの悲しみに行きあった時に誰かに話さずにいられなくなったときに一番がっかりした対応が、「あなたより不幸な人はたくさんいる」という言葉。
確かにそうだ、世の中には世界には自分の悲しみよりも不幸な人はたくさんいる。家族を失い国を失い難民になった人々に比べたら、私の不幸は大したものじゃないだろう。日常的に虐げられてる、飢餓にさいなまれてる人に比べたら、私の軽んじられ方は、心の飢餓は、命にかかわるものじゃない。
きっと、その時私の話を聞いた人は、そういう事、世の中のもっと不幸な出来事のSAMPLEでわたしを慰めようと言葉を探した結果こういうことになったんだと想像できるが…個人の悲しみはそういうことに引き比べられるものであろうか。
それとも、とても意地悪な見方ではあるが、想像もできない他者の不幸話を聞きたくなくて封じるためにこういう対応になったのだろうか。
いずれにせよ、私はそれ以上話せなくなり「違う、そうじゃない」という言葉を飲み込み「うんそうだね」と言った。電話の向こうの彼女はさぞやほっとした顔をしていただろう。私の悲しみは途中で放り出され、他者にとってはどうでもいいことだと実感するにいたった。
そして、結局「他者の悲しみは理解できないもの」と了解した。それはそうだ、誰もがその立場にならなきゃわかりっこないし、感情とか感性とかそういうものはみんな違う。私は堪えがたいことも他者にはやすやすと乗り越えられるものかもしれないしその逆だってある。
それでも。人は話さずにいられないことがある。ただただ言葉にして、自分の気持ちを考えをまとめなきゃいけないことがある。聞き手には想像もできない悲しみ苦しみを吐きださずにいられないことだってある。
そういう人に行きあった時、どうすべきか、私はその時から考えていた。
下手な言葉を選んで、黙らせてはいけない。悲しみにくれてる人に自分の感情を軽んじさせるようなことはさせてはいけない。否定してはいけない、私には理解が及ばないとしてもその人の悲しみは確かにそこにあるのだから。
私にできることはひたすら「聞く」ことと思いいたった。答えは言葉にすることで自身が出していくものだ。それを途中で遮って思考停止にしてはいけない。そんな風に思ったのだ。
慰めの言葉で否定してしまわないようにするのはとても難しいから、ただ、ひたすら聞こうと思った…自分の耳が痛いことでも、恨み事を言われても。とっても難しいことだと思うのだけれど。
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…まとまリのない駄文にお付きあいくださいましてありがとうございます^^;漫画にしようかと思ったんですけどね(苦笑)ナンカ説教臭くってね。
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