初投稿

はじめに

はじめまして、わらびと申します。
ここではつまらない凡人の極めて内省的な独白を記していきたいと考えております。記事というよりかは日記のようにあとあとになって振り返ることができたらと思います。Twitter(現X)では短い文章になってしまい読み返し難いためこのnoteを使ってみようという算段です。こうして電子の海に流すことであるはずもない救いを求めている節はありますが、もし目に留まった奇特な方がいましたら読んでいただけると幸いです。
じっくりと調べてまとめる余裕があれば、専門とする有機化学はもとより数学や生物学などをトピックにしたり、好きな小説やマンガ、バイクやクルマなどについても話をしたいなと考えております。

直近の悩みに関する考察

ここ最近、というよりここ数年でしょうか、対人恐怖的な性質が強くなってきまして、コミュニケーションをとることが非常に苦しく感じることが増えてきました。震えだとか吐き気だとか具体的な症状が出ているので心療内科なり精神科なりを受診したほうがいいのはそうなのですが、如何せんそこで生じる新たな人間関係が億劫であったりして先延ばしにしてしまっている次第です。
人と相対することが怖くなったのはいつ頃からでしょうか。昔から友達は少なくいつも決まった人と一緒に過ごしていたように覚えています。不思議なことにひとりだったという心当たりはあまりないので、表立って拒絶されたりはしていなかったのでしょう。一方でインターネット上でのやりとりに関しては非常に引っ込み思案で、10年以上続けているTwitterですら仲のいい人はいない有り様です。顔の見えない相手、とても怖いです。
原因として思うにあまり人から褒められたり感謝されたりされた経験がないというのはありそうです。他人というのは叱ったり怒ったり、悪意や害意、癇癪をぶつけてくるものだという印象が強いからかもしれません。もちろん必ずしも皆がそうというわけではなく、心を許せる恋人や少ない友人がいるのは恵まれたことだと思います。そうは言ってもやはり初対面の人を避け続けられるとは思えませんし、閉じたコミュニティに居続けるのも寂しい気もします。
滔々とさも被害者かのように綴ってきましたが、そういう相手の行動を引き起こしてしまうには、自らの加害性に起因している気がするのです。他人の考えを推し量ることが苦手故に、会話における最善手を選び損じる、ましてや悪手を引くことも多々ありました。その度に言われるのです、どうして人の気持がわからないのかと。付き合いの長い相手ならいくらかの判断材料を以てして、あるいは失敗した経験を糧にして、会話を紡ぐこともできましょうが、会ってまもない相手とは難しいですし、精神的な負担も甚だしいものとなります。新しい人間関係が億劫なのはある種の自己防衛と他人を傷つけることへの恐れなのかなとも思います。
なるべく人と関わらない生活が理想ですが、理想とは程遠い進路を歩んできて、どうしようもないですね。これからの初めましての方々、胃に穴があかない程度のスパンでお願いしたいものです。

おわりに

人生のある時期からずっと、死にたいと思いながら生きているわけですが、生きる意味について深く考える時間が必要なのかなとは思っています。そういう意味でこのnoteはぼんやりとした考察を書き下してみて何かの草稿になったらいいなと始めてみました。遺書だったら嫌ですね。
ふと湧いた希死念慮に相対するときにいつも、死によって得られる何かは死によってしか得られないのかと考えます。何かから逃げるためなのか、何かに対抗するためなのか、何かに許されるためなのか。それが死より他の方法によって代替されうるなら、その時その場面ではまだ死ななくてもいいんじゃないかなとは思っています。
選択肢が死しかなくなるまでは生きていてもいいだろうし、選択肢を増やすために人は学ばなくてはいけないのではないでしょうか。矮小な凡人が考えを巡らせるよりは先人に寄ったほうがいいと考え、キルケゴール『死に至る病』を手に取ってみましたがいつ読み終わるでしょう。哲学書の読み解き方、教えてもらいたいものです。

それではまた、精神が病んだときに。

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