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続・頭の中のインターネット

僕は頭の中にインターネットがある
より正確に言うと「2ちゃんねる」のような巨大な掲示板。そこには日々膨大な量の文字列が書き込まれているけど、僕はそれをスクロールしながらぼんやりと眺めているだけ。なので何が書いてあるのか理解していない。ただ世間の物事に対して浅い意見が書かれているのだろうな、と漠然と思っている

スクロールして流し読みをしていると、たまに目に留まる文章がある。その文章は他の書き込みと違ってとても深い意見を述べている。僕はその意見に納得し、賛同する。

掲示板に偶に現れ素晴らしいことを言う名も知れぬ誰か。僕はその形のつかめない「誰か」に憧れて、自分もそうなりたいと思っている



最近とあるネットラジオを聴いていた。そこでは「鬼滅の刃」についての話をしていた。その内容は僕の中での「鬼滅の刃」への評価の仕方を変えるもので、愕然とさせられた
「憧れの誰か」が表れた。その人が打ち込んだ書き込みを見て僕は「鬼滅の刃」本当の楽しみ方を理解できるようになった。「憧れの人」はこうやって楽しんでいたのかと



ファッションの好み。健康への意識。思想。全部憧れの人を参考にしている。「彼」は偶にしかあらわれない。だからその断片を見つけて全容を掴もうとしている

「彼」の真似をしていると気持ちがいい
スマホカバーにベタベタと乱雑にステッカーを貼ったり、筋トレをしたり食べるものを制限して体型の事を考えたり、「ジョーカー」から政治的思想的意味を汲み取ろうとしたり



だけど、憧れの人は本当は居ない。ただ僕が良いなと思ったことを覚えていて、参考にしているだけなんだ。でも、その「良い」かどうかの価値基準は「彼」と同じかどうかなのだ
「彼」の全容はわからない。なぜなら最高で最も正しい存在だから
今この瞬間の僕はそうなれていない。つまり「彼」の真似をしきれていない。「彼」の事が全てわかったとき僕は本当に正しくあれるようになる



自分から出た感情について振り返ったら「彼」になりたいという感情になってしまう

Oggiというファッション誌の表紙を阿佐ヶ谷姉妹が飾ったことがあった。その表紙を見て僕は滅茶苦茶良いなと思った。でもなんで良いと思ったんだろうと考えた時、頭の中のインターネットではこの表紙を肴に雑談が行われていた
「いや美人使わんのかい!」なんて浅くて嫌な意見達を「この飾らなさは今の時代にマッチしていて素晴らしいと思うよ」と諭す書き込みがあって僕はそれに賛同する気持ちになった。そうか、こういう風に僕は良さを感じたのか
本当に?
表紙を見た瞬間にまだ言葉にはなっていない良さを感じた。けどその意見が正しい言語化だったのだろうか。それにこれは本当に「彼」の書き込みなんだろうか。見落としているだけでもっと素晴らしい、納得に足る意見があるかもしれない。でも僕の今のところ掴んでいる「彼」の輪郭から推察したらこれとしか思えない。でもそれも正しいかはわからない

そもそもこれは僕の意見なんだろうか。「彼」の意見なのでは?



最高得点で良さを摂取には「彼」のように振舞わなければならない
そうするには一歩引いて物事を受け取らないといけない。けどそうやって得たものは同じだけ良いものになったんだろうか
他人の受け売りで見よう見まねでしかないからどこかに取りこぼしがあるかもしれない。無いのかもしれない。どれだけ深堀しても永遠にわからない

コンテンツから本当の良さを汲み取れる「彼」を参考にしようとする姿勢のせいで、僕は本当の良さを汲み取れなくなってしまったのかもしれない



以上、昨日の飲み会を振り返ってです。

頭の中のインターネットっていうのは例えです。そんなの飼ってないよ




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