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エース・奥川の帰還を見た

 このコラムは文春野球フレッシュオールスター2024応募作品です。
残念ながら本戦出場とはなりませんでしたが、ありがたいことにガッツ賞を受賞しました。
 お読みいただき、そしてご評価いただいた審査員の皆様に御礼申し上げます。
 記念にnoteにも投稿するので、是非お読みいただけると嬉しいです。
(余談:初稿ではののやまののじとありますが、のの「じ」まののじです……)

 その日、私は初めて、スワローズ勝利の瞬間に傘を振らなかった。傘を握りしめたままの手を強張らせ、ただただ耳を澄ましてスタジアムアナウンサーの言葉を待つ。

「――勝利投手、奥川」

 その一声を耳にした瞬間、私の両目からは涙が溢れ出していた。

あの日の忘れ物を取りに

 仕事終わりに駆け込んだ京セラドーム。バッティング練習の野手が引き揚げ、一旦静かになったグラウンドを尻目にカメラの中身を漁っていても、今日の主役がいつ出てくるかが気になって仕方がなかった。今か今かと待ち侘びていると、とうとうその男が姿を現す。

 その男こそ、奥川恭伸その人だった。

 思わず一眼レフを握る手が震える。震えを抑え込みながらファインダーに眼を添えて、一枚に切り取られた世界を覗く。そこには確かに、奥川が映っていた。

 その瞬間、目と喉の奥にぐっと何かがこみ上げてくる。まだだ、まだ早い。押し戻して前を向き、熱心に何度もシャッターを切る。SDカードに写真が増えれば増えるほど、試合開始の時刻は迫っていた。

 そこでふと、一つの疑問が脳裏によぎる。

 私たちは一体、この2年間、どういう感情で奥川恭伸という男を見守ってきたのだろう。耳に入れたくもない、誰かが口にした、強い言葉の数々も頭に浮かんだ。きっと彼らも期待はしていた、だからこその発言だったとしても、認めてはならない表現も多々あった。
 好きなはずなのに、応援していたはずなのに。どんな感情で彼を眺めていたのだろうか。

 いいや、もうやめよう。折角楽しい球場に来たのだから、そんなことは忘れてしまおうと意識をファインダーの中へ戻す。だが、頭は奥川に向けられた感情をラベリングしようと必死だった。
 不安か、期待か、焦燥か、羨望か、疑念か、はたまた感慨か。結局、プレーボールを迎えても結論は出なかった。

 いろんな感情が混ざる私をよそに、奥川は復帰登板で見事5回を被安打7の1失点で投げ抜いた。かつて神宮でマダックスを達成したことを考えれば、完全復活とは言い切れないだろう。2年前に見たあの投球からはあまりに遠いかもしれない。

 それでも私はエース・奥川恭伸の帰還を見た。

 ホームランこそ打たれはしたが、一発以外はたとえ塁に出しても決して返しはしない。味方の失策があっても動じず、無四球で5回までを駆け抜ける。その気構えと横顔は紛れもなく、2021年に見たエース・奥川恭伸のものだった。

2年という時を経て

 奥川が帰ってきた――それだけで私を始めファンは感無量だったが、あの日、目の当たりにした希望はそれだけではなかった。

 チームもまた、苦難をひとつずつ乗り越えてきたのだ。かつてこの地でマクガフが打たれたあの悔しさを乗り越え、きちんと田口が27個目のアウトを取った。
 新たな時代の息吹も感じた。奥川の後は彼と同期の大西が投げ、二遊間を守ったのは同級生の武岡と長岡だ。

 乗り越えた挫折と芽生えた希望の大きさを感じた試合だった。振り返れば完勝とまでは言えない試合だったかもしれない。だが、全員で乗り越えたのだ。勿論あの夜の勝利は奥川のためでもあったが、それと同じかそれ以上にチームのためでもあり、苦しい記憶を一つ過去のものにできた、それはそれは大きな一勝だった。

 チームもファンも勝利の興奮冷めやらぬ中、奥川がカメラの前へと連れられてきた。ヒーローインタビューを受け、ほっとした、けれどどこか落ち着かない表情で喋る彼をじっと見つめる。傍から見ても落ち着かなさは見え透いていたが、それでも彼は淡々と喋り続ける。

 だが「2年っていう期間の中で」と口にした瞬間、過ぎた時の長さを改めて実感したのか、あれだけの投手は堪えきれなくなったものを吐き出して、すっかり23歳の若者らしい表情をくしゃくしゃにして泣いていた。

 等身大に戻った奥川を見て、数年間胸の奥につっかえていたものがすんなりと流れていく。それと同時に、プレーボールの前に抱いた疑問の答えが出た。

 絶望と希望と、それから少しの親心。きっと、2年間、そんな感情と共に彼を見守っていたのだろう。そんなことを理解しつつ、年相応の顔つきで泣く彼を見ていると、私が堪えていたものも両目から溢れ出る。最後に、自然と喉の奥から「おかえり」の一言が飛び出した。

 そしてあの夜から2週間が経ち、奥川は2年ぶりに神宮のマウンドに凱旋した。やはり彼の両目は凛と打者を見据えていて、もっと言えば先日よりずっと、眼差しから迷いが払拭されており、ああ、やはり彼は今後のスワローズを背負う存在なのだと直感的に悟る。
 もう既に大阪で彼を迎えたというのに、今一度「おかえり」と、自然と唇がエースの帰還を歓迎していた。

 君の人生は奇跡でもあり、美しくもある。スターの人生だからこそ、とてつもない重責を君は背負っているだろう。それが宿命だと言うのなら随分残酷かもしれないが、それでも君は立ち向かえると信じている。

 頑張れ奥川、君はまだ、この程度じゃあないだろう。


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