見出し画像

成功していると感じている人はきっと読まなくていい。

去年、「親ガチャ」って言う言葉がすごく流行っていたような。結構周りからも聞いたような。

「あいつって結局金持ちだから親ガチャに成功してるんだな」

「俺は、親ガチャに失敗してるから何やってもダメだよ」

そんな言葉が出ると、何評論家かもわからない人が、「これが貧困の差の現れだ」とか、「どうやって改善するかを考えなくてはならない」とかなんとか言っている。


「親ガチャ」ってすごくよく考えて作られてる言葉だなぁと感じたすぐ後に、いや、そんなに考えて作ってないか。と思い直した。

そもそも親という“ガチャ”だけで全ては決まらない。




たしかに、親というガチャがあるとすれば、それはパズドラみたいにリセマラができない一発勝負のガチャだ。そう考えると理不尽な気もする。「子どもは親を選べない」ってか。

たしかに親からの影響って言うのは計り知れないこともある。でも、それが全てなのかなぁとも思う。

パズドラで、最初のガチャで出したキャラ、最後までパーティに入れてる人はそんなに多くない。



それと同じぐらい大事な“ガチャ”が、その後の期間限定の“ガチャ”だと思う。

クラスの子はどんな子?担任は?先輩、後輩は?

職場の人、趣味で繋がる人、これから出会う人全てが

期間限定の“ガチャ”の連続だ。


だからきっと、親ガチャに失敗したと感じていても嘆くことはないと、そう思いながら生きていく方がいいような気もする。

たとえ自分にとってとても良いと思える親に出会ったとしても、親をパーティに入れている期間より、周りの人をパーティに組み入れなければならない時の方が多いような気もする。

こんなこと言ってたら、評論家の人に怒られそうだけど。


よく考えてみたら、自分だって、ガチャの対象だ。

自分が“ガチャ”を引いているとわからないけど、隣の人もそのまた隣の人もガチャを引いている。

自分にとってのスーパーレア、隣の人のスーパーレアとその隣の人のスーパーレア、それぞれみんな全然違うじゃないか。

出会ってよかったと思う人と人生を共に生きて、出会いたくなかった人はそっとBOXに溜め込んでおいてもいいのかなぁ。逃げてもいいんじゃないかなと。




親ガチャと言う言葉を批判している人たちへ。

きっと、そんな重い意味じゃないと思いますよ。

最初の“ガチャ”が失敗だと思っても、そのあとそれを真剣に聞いてくれる人に出会えるなら、その“ガチャ”は失敗じゃないです。



教員という職業柄、こんなことを

伝えたくなる時もある。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?